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主だ(ヨハネ21:1~14) 20240331

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 2024年3月31日
  • 読了時間: 7分

更新日:2024年9月27日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年3月31日復活節第1主日の礼拝説教要旨です。   杵築教会伝道師 金森一雄 


(聖書朗読)

ヨハネによる福音書第21章1~14節


(説教) 

本日与えられた聖書箇所はヨハネ21章です。ティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された(1節)というのです。さらに、14節では、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」と、完全数である三度目の正直だよ、と言わんばかりの記述がなされているのです。三度目の復活された主イエスの記述がなされている場面だという点に、改めて注目しながら、与えられた聖書箇所を三つの場面に分けて、その出来事を丁寧にご一緒に振り返ってみたいと思います。 


1.第一の場面 

7人の弟子たちがガリラヤに来て、ティベリア湖畔にいたのです。復活されたイエスは、そこでご自身を現わされたのです(1、2節)。ペテロが、「わたしは漁に行く」(3節)と言うと、ほかの弟子たちも皆、「わたしたちも一緒に行こう」と言って、船に乗り込んだ。と記されています。皆さんは、この記事に違和感を覚えませんか? 弟子たちは、陸に舟を引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った(ルカ5:11)はずです。ここには、全く自分を失っていた弟子たちの姿が記されているように私の目には見えるのです。 ペトロは、イエス・キリストの弟子として、宣教の働きについての大きな使命を自覚したはずでした。ところが、元の木阿弥(もくあみ)で漁師に戻ってしまうというのでしょうか。

「昔取った杵柄」という言葉を御存知だと思います。しばらく遠ざかっているが、かつて修練して自信を持っている事柄の喩えです。 年月を経ても腕に覚えのある技能などを例えているものです。 ところが、いつものように夕暮れから夜にかけて漁をしたのでしょうが、彼らは「その夜は何もとれなかった」(3節)のです。

 

2.第二の場面

 4節では、既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられました。夜が明けると光が差し込みます。弟子たちが自信を失い、希望も失いそうな時に、光の象徴であるイエス・キリストは弟子たちに姿を現されます。時は確実に刻まれて行きます。既に朝が来ていました。夜が明けたころ、薄靄(うすもや)の中に愛なる神、イエスが立っておられたのです。 これが福音です。救いです。もし、自分がほんとうに行き詰まって、生きる力も失っているようになるならば、むしろわたしたちは、復活のキリスト、今も生きて不思議に弟子たちに近づいてくださったキリストに触れる、絶好の条件をもっているということが示されるのです。聖書において、出エジプトやノアの洪水物語など、最悪と思われる出来事の後に、被創造物であるわたしたちに対して神が愛を示してくださっている歴史の証言があることをわたしたちは知っています。この時も同じです。弟子たちは、迫害の怖れと自分の力の限界を感じて、己の悲惨さに包み込まれてしまい、主イエスにすがろうともしない、不信仰な状態に陥っていました。それでも主イエスは、弟子たちを見捨てるようなことはありません。かといって、ずかずかと弟子たちのいた船に乗り込んできたりはしないのです。弟子たちの自由意志を尊重され、200ペキス(90m)しか離れていない(8節)岸に立っておられるのです。

 ところが、弟子たちはそれがイエスであるとは分かりませんでした(4節)。どうしてでしょうか。朝靄がかかっていたためでもあるのでしょうが、20章16節で、復活した主イエスに「マリア」と自分の名前を呼ばれるまで分からなかったというのですから、イエスの姿が変わっていたのでしょうか。あるいは、迫害の恐怖に恐れおののく中で、弟子たち自身に霊の眼(め)が開けていなかったからでしょうか。その両方かも知れませんね。 

 

5節では、愛なる主イエスは、弟子たちに何も獲物がなく、すっかり自信を失い、生きる希望を失いかけていた弟子たちを見て、「子たちよ、何か食べるものがあるか」と、問われました。「子たちよ」というのは、わたしたちを神の子としてくださる主イエスのご意志をあらわす愛ある呼びかけの言葉です。 新約聖書403頁の、ヘブライ人への手紙2章13節では、イエスは、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子ら(子たち)がいます」と言い、18節では、「事実、神御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」と仰っています。 

 弟子たちは、親の心子知らず、主イエスの十字架に架かられるまでのわたしたちに対する深い愛情がわからず、わたしたちは勝手気ままに振る舞います。ぶっきらぼうに「ありません」と答えました。何もない。食べるものすらない。人生の目的もない。のです。 

この「何か食べるものがあるか」という、「何か食べるもの」は、ギリシア語の原文では「προσφαγιον プロスファギオン、主食のパンの付け合わせ」という言葉で、魚を指していると考えられています。何か自分の腹の足しになるもの(摘まみ、魚)という意味の言葉で、聖書ではここで一回限り用いられています。 昔取った杵柄に頼った行動をして、漁に出て何も取れなかった弟子たちには、「何か食べるもの」すなわち、魚までなかったことを象徴している記述なのです。

まさに、この時の弟子たちの状況でした。 そうした中にあって、主は生きておられるのです。わたしたちを見捨てるようなことはないのです。


3.第の場面

6節では、岸辺に立つイエスは、彼らに「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われました。この「とれるはずだ」は、ギリシャ語の原典では「(何かを)見いだすだろう」という、希望を現わす言葉を用いています。人間を獲る漁師として招いた弟子たちが意気消沈して、昔取った杵柄に頼り、もとの漁師に戻りかねない人間の弱さを責めたりせず、彼らの行動を生かして希望を与えられるのです。

そして、主イエスの言葉に従って、弟子たちは船の右側に網を打ってみました。すると、網を引き上げることができないほど多くの魚が獲れたのです。

復活のイエスに出会った弟子たちの、現代に生きるわたしたちの証しです。 


7節には、その時、イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「主だ」と言ったら、初めてペテロの眼が開けて、死んだはずのキリストが生きておられる、ということが分かった、と復活のキリストを見上げた出来事が記されています。イエスの弟子たちがすっかり人生に失望し、生きる望みや力さえ失っていたような時に、だれかはわからないまま耳元に囁(ささや)く声に従って網を打ってみると、驚くべき祝福が与えられたのです(6節)。そして、イエスの愛しておられたヨハネがペトロに、「主だ」と言うと、主であることに気がついたペトロは、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだのです。90mの距離を一刻も早く主のもとに戻ろうとしたのです。自分の提言で漁に出かけ、イエスの言葉に従ったときに大量の魚を得たのに、獲物を引き上げることは他の弟子に任せたというのでしょうか、一直線に主イエスのおられる岸辺に向かったのです。

 

10節では、主イエスは岸に立って、炭火を熾(おこ)し、「いまとった魚を何匹か持って来なさい」(10節)と声をかけ、祝福するときと場所を備えて待っておられたことが記されています。さあ、一緒に食事をしようと言って少し離れた陸の上に立ち構えて、わたしたちを招いておられるのです。 キリストの愛は、直接わたしたちがしていることに手を出されません。わたしたちをロボットのように操縦する方ではありません。しかし、最後には必ず助けを用意してくださっている方なのです。

 恐れと失望のどん底で、自分の力では何も得ることができず、何もなかった弟子たちにキリストが近づかれ、驚くべき祝福に引き寄せてくださいました。人生に行き詰まった時に突然、状況が一変し、わたしたちが主イエスの言葉に従うとき大きな祝福に入ること、これがヨハネ福音書21章の復活の物語です。 

 

感染症をなんとか乗り越えて、この春も、木々は緑の衣を着て、ピンクや白や黄色の花を装うときになりました。私たちも新しい生涯を送らせていただきたいと思います。 

 神の御声をお聴きして、思い切って信仰的決断をするようにしてください。わたしたちは皆、不安な気持ちでおびえ、困難な道のりを進んでいます。どうか今日ここで、復活の主を見上げて、主イエスからいただく祝福への道をたどらせてください。と、祈ります。 

わたしたちは、主がいつもともにいてくださり、主がわたしたちを導き、わたしたちの信仰を成熟させてくださることを信じています。今日ここにおられる皆さんも、神の国に国籍を持つ者として、それぞれ主に遣わされた地において、共に主イエスによって平和な義の実を結ぶために主に訓練されるのです。それこそが、キリスト者の特権であり、恵みです。

それぞれが、主に召されて、今いるところに遣わされ、立っておられるのです。ご一緒に、主に感謝させていただきましょう。 

 







 

 

 
 
 

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