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執筆者の写真Kazuo Kanamori

聞き分ける心をお与えください(列上3:4-14)

更新日:6月27日

本稿は、2019年10月20日の鎌倉教会高等科でのメッセージです。金森一雄



(列王記上3:4~14)

4 王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた。

5その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。

6ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。

7わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。

8僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。

9どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

10主はソロモンのこの願いをお喜びになった。

11神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。

12見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。

13わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。

14もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」


1.アイスブレイクタイム


シャルル・ペローの「愚かな願い(Les Souhaits ridicules)」という作品をご紹介します。福音館書店などから絵本となって紹介されたりしていますので、ご存知の方もおられると思います。

昔、昔。神さまを信じてずっと歩んで来たきこりの老夫婦がいました。

きこりは、貧しくてつらい日々の生活に疲れきっていました。

そして、「早く死んで天国に行って、休息をとりたいものだ」というのが口癖でした。

今朝も、「わたしがこの世に生まれて以来、神さまは、一度だって、わたしの願いをかなえてくれたためしがない。」と嘆いていました。

ある日きこりが、奥深い森の中で一本の枝ぶりの良い大きな木を見つけて、それを切ろうとして斧を振り上げると、一人の妖精が現れました。そして、「この聖なる木を切り倒さないでください。」ときこりに頼みました。元来心優しいきこりは妖精の頼みを聞き届けて、せっかく久しぶりに良い木に出会ったのにと思いながらも、他の木に向いました。するとその妖精は、優しい心のきこりへのお礼として、「3つの願い事」をかなえてあげましょうと言いました。

きこりは家に帰って、妖精が約束してくれた「3つの願い事」、さて、どんな願いをかなえてもらおうかと、愛する妻と一緒になっていろいろと考えましたが、頭を駆け巡る願い事がたくさんあり過ぎて、頭を抱えてしまいました。

その時、お腹の空いていたきこりが、暖炉の火にあたりながら、ふとつぶやきました。

「この火でソーセージを焼いたら、おいしいだろうね。大きなソーセージでもあればいいのに。」

すると即座に願いが聞き届けられ、大きなソーセージが目の前に落ちてきました。

そのソーセージを見た奥さんは、金切り声をあげました。

そそっかしい夫の底ぬけの愚かしさから、大切な願いごととしてこんな風にしてしまったせいだと思うと、悔しさがこみあげてきて、夫にあらん限りの怒りの叫びの言葉を投げつけたのです。

奥さんの自分を責める馬事雑言を聞いたきこりは、怒りにかられてこう言ったのです。

「神さま、このガミガミ言うこの女の鼻に、ソーセージをぶらさげてやって下さい」

この願いは、即座に聞きとどけられました。

その瞬間、奥さんの鼻に大きなソーセージがくっついてしまったのです。

きこりは慌ててソーセージを引っ張りますが、ソーセージは奥さんの鼻にくっついたまま離れません。

きこりは、最後の三つ目の願い事になってしまうぞと、しばらく考えていましたが、結局、

「神さま、長年連れ添った愛する妻の鼻から、ソーセージをはがしてください。」とお祈りしました。

するとソーセージは奥さんの鼻から落ちて、床に転がりました。

これで三つの願いは全部おしまい。

ああすればよかったのにとか、こうすればよかったのにと、いろいろ考えられますね。

このお話を聞いて、皆さんは、どんなふうに考えましたか。


作者のシャルル・ペローは、物語の最後に、

「分別のない人、そそっかしい人、心配性の人、ころころ意見の変わる人、

こういうあわれな人たちは、願い事をするのには向きません。そんな人たちの中には、

せっかく天の恵み給うた贈り物を、使いこなせる者はほとんどいないのです」

と厳しいことばを残しています。


この話の中の三つの願いについて、特に注目したいと思います。

このきこりの夫婦の生活は決して楽ではなかったようです。早く死んで天国で楽になりたい、この世では、いい事が1つもないと言っていました。

お腹がすいたので、思わずソーセージが食べたいという一つ目の願いとなる言葉が出たのでしょう。

そんな夫のみじめさに、自分のみじめさが重なって、夫に対する奥さんの怒りの言葉として爆発してしまった奥さんの心の状態もよく分かります。

長年連れ添った奥さんから、馬事雑言を浴びされ、男性のプライドが傷つけられて血が頭にのぼってしまったきこりの気持ちもよく分かります。そして、「この女の鼻に、ソーセージをぶらさげてやって下さい」という冷静さを失った二つ目の願いとなる言葉を発してしまいました。


これはまずいことになった。最後の三つ目の願い事になってしまうぞと、しばらく考えていたきこりでしたが、最後の一つとなった願いについては、冷静な判断ができたのです。

奥さんの鼻にソーセージがくっついてしまうという異常事態が起こると、

今まで貧しくても苦しくても、夫婦2人で仲睦まじく健康に普通に生きてきたことが、一番の幸せだと気が付いたのです。

だからこそ最後に残った一つの願いを、地位や名誉、金銀財宝のような物でなく、妻の鼻からソーセージを取ってください。という願いとして用いたのではないかと思うのです。

神さまを信じて歩んで来たきこりの老夫婦、貧しくてつらい日々の生活に疲れきっていた二人。この経験から、人生で一番大切なものに気が付いたのです。




2.取るに足らない若者~ソロモンの謙遜


さて、今日与えられた聖書箇所に戻りましょう。

列王記上3章7節から9節を読んでみましょう。


7わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。

8僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。

9どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。


ソロモンは、自分のことを「取るに足らない若者」と言っています。偉大な父ダビデの子として、信仰を持って父に従い、その後継者として国の内外にも王としての地位を確立したソロモンです。当時イスラエルの国は、黄金時代、最盛期を迎えていました。ユーフラテス川からエジプトの国境まで広大な領地を擁し、国の経済産業も大いに発展しました。

しかしその王が、自分は神さまの恵みによって、自分が王として立てられたと神さまに感謝を捧げて、「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」と言っているのです。ソロモンの知恵の源はここにあるのです。

神様の前にあっては、自分の力だけでは何もできないと、自分の姿を正直に認めることができたとしたら、どんなに大きな平安が得られるでしょうか。ソロモンは、人間には欠点や不十分な点があるのですから、それを隠すことなく、神さまの前に出て、「私は子供です、何にもわかりません、何にもできません、神さま、私にない必要な物をください」と、謙遜な気持ちで神さまにお祈りしたのです。

そしてそこから本当の霊的な成長が始まるのです。


3.ただ一つの願い~ソロモンの願い


ソロモンが神さまに唯一求めたことは、王として多くの民を裁くために、「聞き分ける心をお与えください」という祈りでした。自分に欠けているもの、自分に足りないもの、自分に今必要なものが分かったら後は簡単です。それを神様に求めればいいのですから。

ソロモンが、自分に欠けているものがあること、今自分に必要なものは何か、を知っていました。それは、「聞き分ける心」です。これは善悪を識別する、見分けるという意味です。ソロモンは、これが一番欲しいのですと答えました。


パウロも同じように、私たちにどのようになって欲しいのか、一番願っていることとして、「本当に重要なことを見分けられるように」と祈っています。


フィリピの信徒への手紙/01章 09節~11節をご一緒に読んでみましょう。

9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、

10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、

 とがめられるところのない者となり、

11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


パウロも、私たちの内なる人が強められて、知る力と見抜く力とを身に着けて、何が正しいことか間違っているかを判断できるようになること、ソロモンが祈ったように、「聞き分ける心をお与えください。」と祈っているのです。


4.主の喜ばれる祈り


このソロモンの願いが神さまの御心に適いました。


もう一度、列王記3章11節から14節を読みましょう。

11神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。

12見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。

13わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。

14もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」


ソロモンが、聞き分ける心をくださいと祈った時に、主は、それ以外にも富も栄光も長寿をも与えらました。昨今、特に人生100年時代という言葉がよく用いられていますが、もしパウロが、長生きを求めたとしたらそれだけのことだったでしょう。神様は、ソロモンがこの聞き分ける心を求めたことによって、他の祝福も全部与えられたのです。


私たちが「何が欲しいか」と聞かれることによって、その人の信仰が問われていることになります。私たちが第一に求めるべきものがあるのです。それは、この「聞き分ける心」なのです。これが私たちの生涯の中で一番大事なものなのです。


イエス様もこのように約束してくださっています。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)


冒頭のきこりの話のように、私たちの願い事を聞いてくださる神さまがおられることを信じていますか。

常に主を自分の前において歩む人生、主を畏れ敬いつつ、その御声に聞き従って行くことができるようになること、これが私たちクリスチャンの目指す人生の目標であり、願いではないでしょうか。


そんな気持ちを込めて、パウロの祈りに呼応して、フィリピの信徒への手紙/01章 09節~11節をご一緒に読んでみましょう!






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