本稿は、2018年10月21日の鎌倉教会高等科でのメッセージです。 金森一雄
ルカによる福音書14章15~24節
15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
16そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、
『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
18すると皆、次々に断った。最初の人は、
『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 19ほかの人は、
『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。
どうか、失礼させてください』と言った。
20また別の人は、
『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
21僕は帰って、このことを主人に報告した。
すると、家の主人は怒って、僕に言った。
『急いで町の広場や路地へ出て行き、
貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を
ここに連れて来なさい。』
22やがて、僕が、
『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
23主人は言った。
『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、
わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
今朝は、ルカによる福音書14章15~24節の聖書箇所が私たちに示されました。この中の登場人物のうち、言葉を発して記されている人は何人いるでしょうか。
ご一緒に聖書を見ながら数えてみましょう、
15節で、イエスさまに「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人がいますね。それから、人となってくださったイエスさまが登場します。盛大な宴会を催そうとした主人の僕が登場して、直前のご案内を招待客にします。それに対して、出席する返事をしていた招待客のお断りの言葉として、18、19、20節で『 』でくくった三人の人の言葉が紹介されています。これらの報告を聞いた家の主人が、怒って僕に命じた主人の言葉が21節に続きます。そしてその主人の命令どおりに追加のお招きをした僕の主人への結果報告として22節で「まだ席があります」と言う言葉があり、それを聞いた主人が23節で「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」と語った言葉に続きます。
今日の聖書箇所を用いて、即興の聖書劇をしてみましょう。ナレーター役は、私がさせていただきます。最初の15節の「食事を共にしていた客」の役は、どなたがしてくれますか?
イエスさま役は、畠義信先生にお願いします。
16節以下のイエスさまの語られた言葉は、たくさんあるので、その中で三人の招待客のお断りの言葉として『 』で示されて紹介されていますので、それぞれの招待客のお断りの言葉を読む役を三人決めます。自薦、他薦して決めましょう。
三人のお断りの言葉を聞いて、家の主人が怒って語った言葉として主人の言葉が続きますが、この主人の言葉はイエスさま役の義信先生にお願いします。
22節には、主人の命令に対する僕からの結果報告箇所があります。僕の役は、どなたがしてくれますか?
それでは、即興聖書劇を始めます。シナリオは聖書だけです。
ところで、盛大な宴会と言われると皆さんだったらどのようなものを思い浮かべますか。
誰かの誕生日会かな?結婚式を想像する人はいますか?
何らかの祝賀会に出席した人はいますか?
当時のユダヤ人の上流社会のしきたり、風習を知っておかなければなりません。
当時の盛大な宴会を開催するに当たっては、主催者からは、招待客に事前通知があり事前に出欠確認がなされていて、さらに、当日定刻になって用意ができたことを改めて出席予定者にご案内しているのです。
こうしたことを前提条件として考えていただいた場合、皆さんは、定刻になってご案内をしてきた僕に、ドタキャンしてその理由を語った招待客たちについて、どんな風にお考えになりますか。
体調不良になったという人はいませんね。個々のドタキャンした理由を探って、私たち人間がしがちな自分勝手な行動だと思いませんか。
三人のドタキャンのお断りをした言葉を見てみましょう。
(1)畑(土地)を買ったので見に行かなければならない。
(2)5組(10頭)の牛を買ったのでしらべに行く。
(3)妻を迎えたばかり。
というものです。
いずれも招待され、出席の回答をしているのに、その時になってドタキャン。
体調が悪いとか病気になったというのであればともかく、ドタキャンした招かれていた人の本心、心の奥底は誰にも分かりません。その人たちにとっては、この招待されていた盛大な宴会に出席することよりも優先して選択するものが、畑であり、牛であり、妻であったということなのです。
次にドタキャンした招待されていた人の語った理由の正当性についてはどう判断しますか?
畑と牛を買ったという二人の人は、その理由を告げた後に、丁寧な言葉で、「どうか、失礼させてください」と言っているようですね。でも、それで済むようなことでしょうか。また、三人目の妻を迎えたばかりという人は、「行くことができません」とだけ言って、先の二人のような「どうか、失礼させてください」とゆるしを乞うような言葉を発している様子はありません。三人目の妻を迎えたという人が、この謝りの言葉も発していないという点については、どうして謝っていないのか、と考えてみませんか?
このようなことを思いめぐらしながら聖書を調べていくと、旧約聖書の申命記24章5節に出会いました。 人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。
(申命記24:5)
こうしてみると、三人目の人の心の中には、「私が結婚したばかりなことは狭い社会ですからご存知ですよね、聖書のことばに従って当然欠席させてください」といった気持ちがあって、堂々と欠席理由を述べたということなのかも知れません。ただ、どんな理由があったとしても、その時の神さまにお招きを受けた宴席に参列しないと「幸いな人」というグループに加われないということのようです。
ドタキャン、しかも定刻になって連絡に訪れてくれた僕に対して、当日欠席することを伝えたことに問題なしとしないと私は考えます。しかも、畑を買ったとか、牛を買った、妻を迎えたというのは、いずれも出席回答をした後から自分が決めたことのに優先順位を置いているように思えるのです。そんなことでは、「神の国で食事をする幸いな人」に加われませんよという、私たちに対する警鐘と受け止めました。私たちは、これを他山の石としなければなりません。
次に、聖書を読むときの一番大切なこと、神さまの心を探ってみましょう。
冒頭で、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなこと」から、始まっていますので、このたとえ話の家の主人とは、神の国の主人である神さまのことです。神さまから永遠のいのちが与えられている世界では、神さまと共に食卓につくことがゆるされるのです。この素晴らしい食卓につくように、神さまは私たちをお招きくださるのです。そして、23節の「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」という言葉に、神さまの強い意思、熱い心を見出すのです。
ここでは、神さまの招かれる食事の席は、空かせておかないで満席にするという、厳然たる神さまの意思が告げられているのです。ここにイエスさまがこの世に遣わされ、私たちの罪の贖ために十字架に架かられて血潮を流されたという、私たちに向けられている神さまの心と主の愛あるご計画の真髄を見ます。
ですから私たちは、何としても、神さまのお招きに応えてこの宴席に参加しなければなりません。本来神さまと同席することが出来ない私たち、一見資格などないと思われる人々が、「無理にでも」と、捜し出してくださった神さまの熱意によって、神の国で食事をする幸いな人として、神さまの晩餐会に招かれる資格を与えられたのです。
みんなで一緒に、「神の国で食事をする人」「幸いなこと」と言われる者として、これからの人生を歩んでいくことが出来ますようお祈りしましょう。
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