本稿は、2018年1月14日の日本基督教団鎌倉教会主日礼拝でのメッセージです。金森一雄
エゼキエル書34章の11~22節
コリントの信徒への手紙一の12章12~27節
1.一つの霊の働き
私が信仰を持ったばかりの時には、
探し求めていた真理に出会えたことが本当に嬉しくて、
「全世界に行って福音を宣べ伝える」「福音を恥とはしない」
「ただ信ぜよ」と、機会があるごとに、誰にでも、何処でも、
熱く福音を語ってきました。
当然の結果、私の独り相撲となって周囲の方と行き違いが起こるなど、
ほろ苦い思いをする経験を沢山してきました。
こうした中で、一番苦い味として記憶に残っているものは、
何と言っても自分の父親との関係で起きたことです。
私の父親は、自分が納得しないと動かない、大正生まれの頑固親父。
シベリア抑留帰りの元日本兵で、富山県出身、浄土真宗の檀家でした。
私も幼少時から父に並んで、仏壇の前にいることは日常的なことで、
人間一人ひとりが、Faith=信仰を持つ必要があると思っていました。
私の自分の信仰を探し求める心は、父親譲りのものだったようです。
そして、長い求道生活の中で45歳になった私が、
「プロテスタント教会で洗礼を受けることにした。」と父に報告した時に、
父は、「どんな宗教でも、人間が信仰を持つのは良いことだ」と即答し、
両親揃って私の洗礼式に参加しました。
きっと、物分かりの良いお父さんだねと思われると思いますが、
確かに、シベリアでの捕虜生活の経験をバックボーンに持つ父は、
常に責任の所在を明確にしながら、すべてに慎重で、
どのような変化も恐れず受け止め、弾力性に富む、敬愛する父です。
その父の90歳の卒寿の祝いの席でのことです。
お祝いに駆け付けた方々に囲まれて終始ご機嫌の様子だった父が、
親戚一同の前で、いきなり私たち家族三人に向かって、
「伝道の為に来るのなら来ないでくれ」と、怒鳴ったのです。
周囲は、一瞬シーンとなってしまいました。
何がどうなったのかと、父の心の中を探りましたが、
父の気持ちを推し量れません。
クリスチャンは、親族の中で私たち家族三人だけ。
どうすればよいのか、これからどう接していけばよいのか、
不安になりました。
そしてそれからは、私たち家族三人は、両親のために祈る時間を
従来以上に多く割くようにして、時間の許す限り、
頻繁に両親の住む実家に足を運ぶようになりました。
それから7年。万事にきめ細かく慎重だった父に、
痴呆が見られ始めました。
最後の最後まで自宅で過ごしたいと言っていた両親でしたが、
実家の近くに評判の良いグループホームが新築されるという情報を、
この信じられないタイミングでいただくことができました。
そして、両親揃って新しい9人のグループが形成されたのです。
痴呆の認定とグループホームへの入居がほぼ同時になりました。
90歳を越えた両親が自分の手の届かないところに行ってしまう、
これで、まだ信仰告白をしていない両親が
キリストを受け入れることは不可能になった、と思いました。
愛する妻の涼子は、両親の救いについて希望を失う
夫の哀れな姿をそばで見て、私の信仰の危機を感じたようです。
夫婦で共に祈り、その祈りを教会の祈祷会に運んでくれました。
両親のホーム入居一か月後、森牧師夫妻がグループホームにいる
両親を訪問してくださることになりました。
「伝道の為に来るのなら来ないでくれ」と怒鳴られたことが
トラウマになっていました。
牧師にお越しいただくのに失礼なことになりはしないかと、
この世的な不安な気持ちでいっぱいになりました。
その時の私の助け手は、娘の雅葉でした。
「牧師先生の顔を見ると、お祖父ちゃんは笑顔になるよ」と、
確信に満ちた発言をしていましたので、大いに励まされました。
果たして、ホームを訪問してくださった森牧師夫妻とお目にかかると、
父は、「教会が来てくれた、ありがたい。」と、満面の笑顔でした。
そして、「わざわざこんなところまでお出でくださり、
本当に申し訳ない」と、しゃきっとして、謝辞を述べたのです。
さらに、森牧師の招きの言葉に対しては、
「よろしくお願いします」「今後励んでまいります」と、
両親揃って応答して、イエスさまを心にお迎えしました。
2014年7月、父97歳、母94歳11か月のことです。
私は、主の栄光の前にひれ伏し、止めどもない涙があふれ落ちて、
グループホーム中に響き渡る賛美をしました。
そして、コリントの信徒への手紙二の12章9節の
「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」
という主の言葉が、
私を包み込んで祝福してくれました。
その後、グループホームの責任者から、
「ホームでの宗教活動は禁止されています」と注意されたので、
頭を深々と下げることとなり、
ホームの関係者にクリスチャンファミリーであることを宣言出来た、
という落ちのある話になりました。
一人の人が信仰を持つことと、その後、信仰が強められていく道は、
聖霊なる神さまが、人それぞれに異なったものを備えてくださっています。
最初の一歩である、一見簡単そうに思える、「信じる」ということには、
人の知恵では分からない、人の手には及ばない、
人の立ち入ることのできない神さまの領域があるのです。
本日お読みいただいたコリント信徒への手紙一12章の冒頭の3節で、
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」
とパウロが、語っていることは、真実なのです。
前置きが長くなりました。
本日お読みいただいたコリントの信徒への手紙一の12章は、
この聖霊の働きをベースとしてパウロの発言が展開されていきます。
一つの霊=聖霊に導かれて、「信仰によって一致してほしい」というのが、
パウロの主眼なのですが、
今朝は、この箇所から、聖霊なる神さまは、現在の鎌倉教会に
どのように語りかけてくださるのかを、一緒に考えて参りたいと思います。
2.一つの体の例え
ここでパウロは、キリストの「体」すなわち教会という共同体を
建てあげて行くことについて、人間の体を用いて語っています。
人間の体は、約60兆個の細胞で出来ています。
また、血管をすべてつなぎ合わせた長さは10万km、
地球2周半に相当します。
さらに、舌の模様と指紋は誰一人として同じものは無い、という代物で、
多様性と統一性を兼ね備えた、創造主なる神さまの最高傑作なのです。
そこで、12節では、既に存在する共同体である教会は、
キリストの「体」そのものであり、そこに連なる私たち信徒は、
その体のどこかを担うものとして、集められ、
一つのキリストの体へと結び合わされ、unitを形成していると、
パウロは語ります。
そして次の13節では、
「皆一つの体になるために洗礼を受け、
皆一つの霊をのませてもらった」 と語り、
unity、すなわち単一性のあるものになるものとして、
「ユダヤ人と異邦人」、「奴隷と自由な身分の者」を
取り上げて例示しています。
当時のユダヤ人は、自分たちを神の民であり、
選ばれた民族だと自負しており、他民族を見下していました。
また、奴隷には自由があたえられていません。
ですから、パウロのこの発言は、当時の社会で全く相容れない、
水と油の関係のようなものを例として取り上げているわけで、
当時のユダヤ人に喧嘩を売るチャレンジな表現をしているのです。
現代の日本に生きている私たちには、
この手紙が書かれた当時のような民族間の対立も無いし、
身分制度も異なるので、関係のないことだ、と思わないでください。
人と人とが相容れない習性は、今も変わることがなく存在しているのです。
皆さんも、自分はあの人だけは受け入れることができない、とか、
顔も合わせたくない、同席することさえも嫌だ、
と思ったりしたことがありませんか。
ここでパウロは、そのような人間的な思いでは一つになれない者たちが、
一つの霊=聖霊の働きによって洗礼を受けることで、
洗礼を受けた者たちが共に一つの体の部分として
unitを形成していくのだと、語っているのです。
さらに、皆一つの霊をのませてもらったと、
「のむ」という表現を用いていますが、
聖霊が私たちの外側にいて働いてくださって、
私たちが自分の心の扉を開けてイエスさまをお迎えするだけでなく、
霊を「のむ」ことによって、その体に霊が宿り、
内側から作り変えてくださると言うのです。
教会で「のむ」と言えば、
聖餐式における「杯」を連想していただかなければなりません。
聖餐は、洗礼によってキリストの体へと集められた者たちが、
キリストの体と血とにあずかりつつ生きることを確認し合って、
祈念するものです。
ですから私たちは、聖餐の祈りにおいて
「御前にある私たち一同を、主イエス・キリストにおける一つの交わりに
あずからせてください」と祈るのです。
3.僻みの心
次に、15節以下では、足や耳や手や頭が、私は体の一部ではないと、
体の一部が自ら語り出すという、極めて特異な表現をしていますので、
パウロの言わんとするところを、じっくり探ってみたいと思います。
マタイによる福音書の25章に、「タラントンの例え」があります。
主人が僕たち三人を呼んで、主人の財産の中から
それぞれ異なる金額を預けて旅行に出かけるという話です。
この話の中で、
一人の僕には5タラントン、もう一人の僕には2タラントン、
もう一人には1タラントン、三者三様に主人の財産が預けられます。
最初の二人の僕は、主人から預かったお金を元手に商売をして、
預かった額を2倍にしたのです。
ところが、1タラントンを預けられた僕は、それを用いず、
土に埋めて金を隠していました。
この例えに出て来る主人とは神さまのことであり、僕とは私たち人間です。
そして、このタラントンという言葉は、
神さまが私たち一人ひとりにあたえてくださるタレント、
即ち才能、能力という言葉の語源となっているものです。
僕たちに異なる金額、タレントを預けたが、その評価基準は何だなどと、
この世的な人事評価や偏差値論に入り込んではいけません。
いくら預けるかは、主人である神さまの専決事項です。
1タラントン預けられた僕は、他の人に預けられた金額に比べて、
自分は少ない金額だと知ったのではないでしょうか。
そして、どうせ自分はちっぽけな才能しかない、
きっと、主人に自分の力は評価されていないなどと、
僻み根性に覆われてしまったのではと想像します。
私たちは、この例えのように何事につけても、
他の人に与えられているものが、羨ましく見えてしまうものです。
この罠にはまると、人は不思議な劣等感に見舞われて、
自分はちっぽけで役に立たないものと、感じてしまうのです。
これが悲劇の始まりです。
二人の僕は、主人から預けられたお金を元手に、
お金儲けをして褒められますが、
1タラントン預けられた僕は、それを用いようとせず、
預けてくれた主人を信頼せず穴を掘って隠していたというので、
旅行から帰ってきた主人からこっぴどく叱られ、
預けられていた1タラントンを取り上げられたのです。
儲けるという漢字を書いてみてください。
信じるの「信」という字の右側に、「者」と書きますので、
「信じる者」は、「儲」かるという象形文字だと言ったり、
この箇所箇所で神さまは信者にお金儲けや銀行の利用を勧めているので、
資本主義礼賛者だ、といった短絡的な解釈をするのは、的外れなのです。
このタラントンの例えにおける1タラントンというのは、
一人の労働者の16年強相当の賃金に当たる金額です。
気前の良い主人です。僕たちに半端な金額を預けたわけではありません。
神さまは、私たち一人ひとりに、
異なる大きな才能や能力を与えてくださっているのです。
僕である私たちは、恩寵をくださる神さまをただ信じて、
いただいた賜物について、感謝して受け取って、
遠慮なく用いなければならない、というのがこの例え話のポイントなのです。
ですから、続けて17~20節で、
パウロは、みんなが同じ働きをするようになってしまったら、
体というものは成り立たない、
私たちそれぞれに、それなりの賜物、力、働きが与えられていて、
それは神さまが、様々な違った者たちを集め、
共に一つのキリストの体を作り上げようとしておられるから、
異なるものになっているのだ、と語っています。
そして、コリントの信徒に対して、お互いの違いを受け入れ、
僻み根性ご法度、それぞれの賜物を生かして、
共同体を形成していくようにと、励ましているのです。
4.他人を傷つける言葉
パウロは次に21節以下で、別の角度から、
体の中で比較的大事なものだと思われている目や頭が、
手や足に向かって、「要らない」とは言えないと、語ります。
「お前は要らない」と言われた人は、ひどく傷付きます。
これは、その言葉の受け取り方が悪いなどと、片付けてはならないのです。
原因は、やはり言っている人の心の中に、人の働きにケチをつけ、
批判している心があるからなので、
これが、教会という共同体の中で行われているのであれば、
発言する側に上から目線で「あなたのような信仰のあり方ではダメだ」
といった、否定的な思いがあるから起る問題なのです。
昨今の近代社会では、セクハラやパワハラは徹底的に締め出されています。
「お前は要らない」などと言うのは、人を傷つける言葉で、
絶対使用不可とされている言い回しです。
私たちは人に傷つけられることには敏感なのですが、
人を傷つけることには非常に「鈍感」なので注意しなければなりません。
「ハゲー」などと人を罵倒して、人を傷つける言葉を使ったと、
どこかの女性議員さんが批判されていましたが、
人間は、自分では無意識のうちにこの種の発言をしてしまうのです。
皆さんは、知らず知らず上から目線になってしまうことがあることに、
お気付きになりませんか。
そして、パウロは22節以下で、
私たちは、自分の体の中で、見劣りがする部分、弱い部分があるとしても、
それは要らないと言って切り捨てたりはしない、
むしろ、そういう所は服で覆って見栄えよくして見せようとしたり、
自然に、体の弱いところを他の部分の働きによって補っている、
一つの体というものは、そのようにして成り立っているのではないか、
と言うのです。
また、それだけではなく、神さまは、キリストの体を作り上げていく時に、
むしろ見劣りのする部分を一層引き立たせようとしておられるのだ、
と語ります。
これが神さまの目線です。私たち人間の思いとは異なるのです。
私たちは、優れたもの、能力のあるもの、美しいものを大事にします。
そのようなものによって、仕事や奉仕をすることができると思っているし、
自分自身もそのようなものになろうとしてしまいがちです。
神さまが、優れた者、強い者のみを愛し、
そういう者を集めてキリストの体を造り上げようと思われたのなら、
キリストの十字架による贖いは、要らなかったでしょう。
私たちが、神さまの救いへと招かれ、鎌倉教会に集められているのは、
神さまが、弱く、罪に捕えられている、問題に満ちた私たちを、
それ故に、見捨てられることなく、深く慈しんでくださり、
独り子イエス・キリストの十字架の死による贖いによって 救ってくださったからではな
でしょうか。
弱いところは他の部分の働きによって補っていくことこそが、
教会が教会である印です。
弱いところが、切り捨てられずに、他の部分の働きによって補わられ、
支えられる、そうした働きの中にこそ、
鎌倉教会がキリストの体そのものであるということが現されて来るのです。
こうして、キリストの体である教会は、このキリストの恵みにより、
一つの「共同体」に形成されていく必要があるのです。
そして、さらに26節では、共に苦しみ、共に喜ぶことの大切さを告げて、
27節で 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
と結んでいるのです。
5.まことの羊飼い
最後に、本日併行して読んでいただいた旧約聖書の
エゼキエル書34章の11~22節について、簡単に触れたいと思います。
主なる神さまが羊飼いとして養ってくださる羊の群れについての記事です。
そこには、肥えた羊、やせた羊、 強い羊も弱い羊もいます。 18、19節には、その群れにおいて、肥えた、力の強い羊が、
神さまにあたえられた牧草地を好き勝手に踏み荒らし、
自分たちだけが澄んだ水を飲んで、残りを足でかき回して、
後から来る弱い羊には泥水を飲ませるようなことが
起っていると記されているのです。
さらに、21節では強い羊が脇腹と肩で弱い羊を押しのけ、
角で突き飛ばし、外に追いやるようなことが起っていたというのです。
そして、神さまは、15、16節で次のように宣言されているのです。
「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。
しかし、肥えた ものと強いものを滅ぼす。
わたしは公平をもって彼らを養う。」
まことの羊飼いとしてこの世に来て下さったのが主イエス・キリストです。
ところで、昨年の12月10日に鎌倉教会のワークショップが開催されました。
そこで、鎌倉教会の基本理念を表わすキャッチフレーズとして皆で選定した言葉は、
「天に栄光、地には平和」 でした。
私たち鎌倉教会は、「天に栄光、地には平和」をキャッチフレーズとして歩み続けながら、成熟を目指して教会形成に励んでいくことが求められているのです。
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