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執筆者の写真Kazuo Kanamori

金森一恵葬儀の遺族代表謝辞

更新日:2021年9月10日

本稿は、2015年1月21日に日本基督教団鎌倉教会の森研四郎牧師の

司式によって執り行われた、故金森一恵の葬儀における遺族代表謝辞です。


群生した水仙の花から、必死に生きる慰めをいただく今日この頃です。

このたびは、92歳の母の葬儀に際しお心配り賜りまことにありがとうございます。

母一恵は、

江草豊三郎(1965年2月7日没)、増恵(1968年10月20日没)の

長女として、1922年8月7日に岡山県笠岡町で誕生しました。


岡山県の高等学校を卒業後、満州国の保定市日本領事館で働いていた

長兄をたよって日本海を渡り、三井物産の保定支店に勤務しました。

そこで、父、金森芳雄と運命の出会をすることになりました。

先の大戦の中で、1943年に父芳雄に召集令状が届いたことから、

周囲の必死の勧めがあり、父の出征に合わせて結婚したそうです。

終戦の直前、長女正枝が、1945年8月7日に誕生しましたが、

父芳雄は、そのままシベリア抑留となりました。


母は、生まれたばかりの姉を抱えて、故郷岡山に帰国することができました。

母と乳飲み子の姉は、新聞に掲載されるシベリア帰りのリストに

父の名前がないかと注目する日々が続いたと聞いています。

幸いにも、三年後の1948年に父芳雄が、

厳寒のシベリアから帰還することが出来ました。

そして、私を授かり、家族四人のないものばかりの東京での生活が始まりました。

ここまでは、母の人生の第一ステージで30歳になるまでのことです。



第二ステージの30年間は、復興・成長の日々が続きました。

悲惨な戦争体験から、母は、自分の子どもには物質的なものではなく、

身体や心の中に残る教育に注力した、とても厳しい教育ママとなりました。

また、戦後の経済復興と共に、金森家の建て上げに奔走する日々が続き、

生活の礎を形成していく恵みの中に生きました。

 

そして、60歳からの第三ステージに入るのですが、

60歳の前半には、胃の全摘手術を受ける大病を経験しました。

この時、父は毎日、一日も欠かさず、入院中の母を訪れました。

戦中、戦後を共に必死に生き抜いてきたお互いを大切にし、

励ましあう夫婦の後姿を両親から学ばせてもらいました。

手術後は余命いくばくもないと医者に言われましたが、

母の生命力は少しも衰えることなく、

また、父の全面的なサポートを得て、何事もなかったように、

神さまから与えられた一日一日を大切にしながら、

夫婦二人で歩む生活を送ってきました。

そして、音痴を克服しようとカラオケにチャレンジしステージにまで上がり、

また、庭の植栽の手入れなどを完璧にこなしていました。


 

いよいよ30年ごとに刻んだ母の人生の第四のファイナルステージです。

90歳代に入ると、人生の最後まで自力で自分の家で過ごしたいと

常日頃言っていたのですが、さすがに体力の衰えが目立ち始めました。

そして、最後の二年間は、神さまと向き合うときとなったようです。

日本基督教団鎌倉教会の森研四郎牧師の導きにより、

2014年7月21日に、父母が揃って洗礼を受けクリスチャンになりました。


クリスチャンになって、天国の国籍をいただくと

周囲からは、体力の衰えが一時的に止まったように見えましたが、

見た目より自分の体調は悪いと母は話していました。

そして、今年の2015年1月16日、肺炎を患い天国に旅立ちました。

子どもの私から母を見ると、神さまからいただいた命を恵みとして受け止め、

生きることに使命を感じて、精一杯の力を振り絞ってこの世界を駆け抜けた

強い女性に映ります。

母は、自分自身の葬儀について、近親者での慎ましいものを望んでおりました。

お心遣いをくださった皆さまは、母の最期の隣人になってくださった方々です。

改めて、皆様のご厚情に感謝の気持ちを申し上げさせていただきます。


2015年1月21日   故 金森一恵 親族代表 金森一雄



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