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執筆者の写真金森涼子

親子三代のクリスチャン家族になる  

更新日:2022年12月12日

金森涼子記




主は人の一歩一歩を定め

御旨にかなう道を備えてくださる。(詩篇37:23)


見通しの効く道を歩ませていただけたら、

どんなに嬉しいことでしょう。

しかし、神はそんな道を備えてくださいません。

ただ今日一日、目の前の歩みを備えてくださる。

神が開いてくださる一歩一歩を踏みしめて、

命に向かうのです。

一気に駆け抜ける、というわけにはいきません。

 「朝の道しるべ」 小島誠志(おじませいし)


主の御名を賛美いたします。


これまで私は、親子三代のクリスチャンとは、

父と母が救われ、その子どもたちが救われ、

孫たちが救われていくことだと考えていました。

ところが、我が家は、

一番に夫の一雄が救われ(1994年11月27日)、

妻の私が救われ(1998年9月27日)、

娘の雅葉(まさは)が救われ(2003年11月7日)て、

そして今回(2014年7月21日)、夫の父芳雄と母一恵が同時に救われたのです。


本来、信仰とは個人のものですから、一番身近な家族であっても、

ノンクリスチャンをクリスチャンに導くことは、大変なことなのです。

人の力では、絶対に出来ないのです。無理なのです。

神さまに愛と憐れみをいただかなければ、

絶対に出来ないことなのです。


私たちは知っています。

主イエス・キリストを求めるクリスチャンの後ろ姿が、

実は他の人たちに対して主を指し示す一番の宣教の業となるということを。


金森芳雄(97歳3ヶ月、要介護4)と金森一恵(91歳11ヶ月、要介護3)が、

今回どうして、この救いに与ることが出来たのでしょうか。

金森芳雄と一恵は、もはや自らペンをとることが出来なくなりました。

今日までのこの二人の道のりを、嫁の立場で見つめてきたことを、

私が代理人となって証しをしたいと思います。


1945年、終戦になった時、日本に戻ると告げられた列車に乗せられ、

芳雄はそのままシベリア抑留となりました。

20代後半の3年間、過酷な労働と壮烈な生活(寒さと飢え)に耐え抜き、

1948年に生きて日本の国土を踏むことが出来たと聞いています。

大切な青春時代を兵隊としてお国に捧げたのです。


芳雄は、一恵と満州国で社内結婚して、

赤子(長女正枝)を一人誕生させていただいていたので、

終戦にともない、一恵は生まれたばかりの正枝を抱えて、

船で日本に帰国し、一恵の故郷である岡山の実家に身を寄せて、

芳雄の帰国を信じて待っていたらしい。

1948年、芳雄は、三年間のシベリア抑留生活を終え、

舞鶴港に帰還しますが、

親子三人身を寄せる場所もなく、

四畳半一間を借りて生活を始めたと言っていました。

そして翌年の1949年、夫一雄が誕生したのです。


芳雄は、大変几帳面な人で、軍隊で使用していた飯盒の裏側に、

郵便局の通帳番号を刻んでいました。

それをたよりに窓口で現金の引き出しができ、

当時の生活の支えになったそうです。

戦中、戦後のこうした経験があったせいか、

芳雄は、自分を支えるのは金、金がこの世のすべて、

となったと私は思います。

金を稼ぐためには仕事、

家族を養うのには金。

芳雄の中から、神さまは消えていたと思います。


それでも、芳雄の昼夜を惜しまない真面目な働きにより、

家族は申し分のない恵まれた生活が守られたようです。

長男の一雄が45歳で、

キリストに救いを求めて信仰に与り、

授洗へと導かれました。

その洗礼式には、芳雄と一恵、長女正枝、

嫁の私と孫の雅葉が立ち会いました。

一雄の洗礼式では、 関係者全員がしっかり

記念の集合写真の中央に収まっています。



そのとき、芳雄は長男一雄の洗礼式の様子を

懸命にビデオに収めていました。

その後、嫁の涼子と孫の雅葉が、順次授洗して行くことになります。


そして、芳雄が90歳となる頃、

「伝道に帰ってくるのなら来るな」と、

親族の集まっている中で、私たち家族に暴言を吐きました。

一回限りのことなのですが、その時何があったのか分かりません。

また、芳雄94歳の時、

「永福町のお墓(芳雄が50歳で建立)に行くから、連れて行ってくれ」

と電話があり、いつものように家族そろって出かけました。

いつもの通り、お墓の周囲の掃除をしてから、お花を飾り、お線香をあげてと、

皆が自然と手分けして動き始めていました。


ところがその日は、芳雄だけがいつもと違う動きをしたのです。

芳雄は、何も段取りが出来ていないのに、

自分が抱えていたカバンの中から位牌を取り出してお墓に置こうとしたのです。

いつもは、お墓参りに仏壇の位牌は持っていかないのです。

その時、芳雄の足がよろけて転んでしまいました。

ドーンと大きな音がして、芳雄はお墓の塀に倒れて頭を強く打ったのです。

出血多量で、救急車で病院に運ばれました。

芳雄はいつも健康保険証をカバンの中に入れているので、

病院について私がカバンを探ると、健康保険証と財布が見つかりましたが、

その他に、一雄が父の学校経由で芳雄に感謝を込めて出した「父への手紙」

が入っていました。

それからは、芳雄は家の仏壇の扉を閉ざしました。

お墓参りには、それ以降誰も行かないようになりました。


これまでずっと、最後まで自宅で過ごすと主張していた両親でしたが、

2014年3月には、芳雄、一恵がともに要介護認定されたことから、

親族が集まって相談し、自宅介護を断念してグループホームへの入所を決めました。

幸運なことに、ケアマネージャーさんのお世話で、

6月に新設のグループホームが近所に完成するとの情報をいただき、

すぐに入居が決定して、芳雄・一恵二人揃って、

6月16日に入所することができました。




2014年7月14日、そのグループホームに、一雄と涼子の所属する

鎌倉教会の森牧師ご夫妻が埼玉のホームまでお見舞いに来てくださいました。

この時、森牧師は、

「金森芳雄さん、一恵さん、大丈夫ですか、聞こえますか」

と、まず父芳雄の補聴器に向かって大きな声で確認されました。

これを聞いて、芳雄と一恵がうなずきました。

森牧師は続けて、両親に話しかけてくださいました。

「一雄さんと涼子さんの強い思いをお伝えしたくて伺いました。

一雄さんと涼子さんが行くところは決まっています。

そこに、芳雄さんも一恵さんも一緒に行ってほしいと言っていますよ。

一雄さんと涼子さんは、『父さん、お母さんとずーっと一緒にいたい』

と言っています。

お父さん、お母さん、どうですか?ずーっと一緒にいたいでしょう?」

芳雄も一恵も、今度は涙を浮かべてしっかりとうなずきました。

芳雄は、

「教会が来てくれた。こんな立派な先生が来てくれた。ありがたい。」

と頭を垂れました。

一恵は、

 「これから励みます。アーメン。」

と答えていました。



2014年7月20日、鎌倉教会の臨時役員会が開かれました。

金森芳雄と一恵の洗礼試問会ですが、そこには一雄と涼子が代理出席して、

信仰告白に至る経緯を説明し、役員全員一致で授洗の承認をいただきました。


翌日の21日、志木市柏町1丁目6番25の関口三郎・正枝(長女)宅で

芳雄と一恵の洗礼式と聖餐式が執り行われました。

神さまは、ノンクリスチャンの関口三郎・正枝の自宅を解放させ、

グループホームとの両親の送迎役に、長女正枝と一恵の末弟江草広を用いられました。


洗礼式の時、森牧師の祈りを芳雄と一恵は静かに聞いていました。

芳雄は、

「たくさんの人が来てくれて、こんなに嬉しいことはない。

神さまのお蔭だ。アーメン。」

と言っていました。

一恵は、芳雄の手の上に自分の手を重ねて、

「アーメン。」

と言っていました。

私は、すべてが主のご支配とご計画の中にあること、

芳雄と一恵は、詩篇14章2節にある主の誘いに手を挙げたことを確信しました。


主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。


神さま、お祈りします。

十字架の上で流された血潮と主の憐みにより、金森芳雄と一恵が、

神さまの御前に進み出ますこの時を赦され、導いてくださったこと、

ありがとうございます。

小さき者に悔い改めの時を与えてくださいましたことを感謝いたします。

また、グループホーム「ブロン」での主の証し人として、

金森芳雄と一恵が立たせていただきましたことを感謝いたします。

高齢と体力の衰えの故に、

二人が鎌倉教会をおたずねし礼拝させていただくことは叶いませんが、

鎌倉教会の一枝として、鎌倉教会の群れの一人として、

加えてくださったことを感謝いたします。

鎌倉教会の兄弟姉妹として迎えてくださった皆さまに感謝いたします。

                           

【2014年7月21日、午前11時、金森芳雄・一恵洗礼式立ち会い人】


森研四郎牧師・稚子夫人 遠藤亮牧師 奥田外志(役員代表) 

金森一雄・涼子 金森雅葉(撮影) 関口三郎・正枝 江草広(一恵の末弟)  


                2014年7月24日  金森涼子     



2014年7月20日鎌倉教会の金森芳雄・一恵授洗試問会手元資料(金森一雄作成) 


1.授洗者氏名、生年月日、出身地、要介護認定情報  

金森 芳雄(かなもり よしお) 

1917年3月31日生(97歳3カ月) 富山県高岡市出身、7月20日現在要介護4  

金森 一恵(かなもり かずえ) 

1922年8月7日生(91歳11カ月) 岡山県笠岡市出身、7月20日現在要介護3 


2.家族  

長女:関口正枝(1945年8月7日生)、長男:金森一雄(1949年8月8日生) 


3.経歴  

第二次世界大戦中に、中国の河北省保定市の三井物産に勤務中に知り合い、

芳雄が召集令状受領を受け1944年1月31日に社内結婚。婚姻期間70年。

長女正枝は1945年8月7日に保定で誕生。終戦となり母一恵と二人で帰国。

芳雄は、終戦と同時にシベリア捕囚となり、1948年に帰還。

芳雄が日本に帰国後、1949年8月8日に東京都板橋区で長男、一雄が誕生。

日本帰還後、創業間もない第一石産運輸㈱に入社、営業担当役員として活躍。

芳雄、一恵とも大病を患うこともなく(一恵は20年前に胃全摘手術)、

2014年6月16日にグループホームブロン(志木市)に入居するまで、

埼玉県志木市自宅にて、長女正枝夫妻のサポートを得ながら自活。

2014年7月14日、鎌倉教会森牧師夫妻に導かれ、信仰告白した。 


4.信仰について 

芳雄は、浄土真宗の檀家に生まれ、幼少時にはお経をあげなければ、

食事をとることができない環境で育ち、父母の命日には一人でお経を諳んじる。

現在は、杉並区永福町大円寺に、高岡市より分骨した芳雄建立の墓がある。

7月20日に一雄が大円寺を訪ね、住職と面談し芳雄と一恵の授洗の報告をした。

なお、芳雄は四男であるが、すでに他の兄弟、姉妹すべてが死去している。

芳雄は、シベリア捕囚中共産主義教育を強要され、仏教を棄教宣言させられた。

「信仰は、人間にとっては大切」としながらも、

新たに自分自身がキリストを受け入れるに至っていなかった。

グループホーム「ブロン」を訪問してくださった森牧師のお話を聞き、

長男一雄の信じる信仰を受け入れる時を迎えた。

一恵の育った地域は、天理教が強いようであるが、家族、本人とも無宗教。

一恵は、かねてより「信仰については、一雄にすべて委ねる」

との発言をしていたが、

森牧師への応答として、「今後励んでまいります」と発言している。


5.洗礼式への親族の参列者

金森一雄・涼子 (鎌倉教会)  

金森雅葉(International Christian Assembly)  

関口三郎・正枝 (一雄の義兄と姉、ノンクリスチャン)

江草 広 (一恵の末弟、ノンクリスチャン) 

 

6.その他

長男、一雄が1994年11月27日、久喜福音自由教会で授洗。

その際、両親の芳雄、一恵、及び長女正枝、一雄の妻涼子と長女雅葉も、

一雄の洗礼式に参列した。

一雄の妻涼子は1998年9月に授洗、長女雅葉は2003年11月に授洗。

芳雄、一恵、姉の正枝は、教会の礼拝に数回出席したことがあるが、

キリストを受け入れるのは至っていなかった。

洗礼式に出席する親族の関口三郎・正枝、江草広は、信者ではない。 

父母の隣人として介護のサポートしてきた姉の関口三郎・正枝夫妻からは、

「両親の信仰、葬儀、墓」などの対応を、長男、一雄に任せると確認した。

今回の金森芳雄・一恵の洗礼にあたって、グループホームブロンから、

7月21日の洗礼式会場としてホームを用いることについて難色を示された。

これを受けて、関口三郎・正枝夫妻から自宅を提供するとの申し出を得た。

21日の洗礼式に列席する一恵の弟、江草広(76歳、山梨県都留市居住)は、

一雄の幼少時の家庭教師をしていた。

また、芳雄の勤務していた第一石産運輸㈱の都留工場長であった。


(使徒の働き16章31節) 主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。

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