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父 親 と 家 庭

  • 執筆者の写真: Kazuo Kanamori
    Kazuo Kanamori
  • 2014年5月24日
  • 読了時間: 14分

更新日:2021年9月10日

本稿は、2014年5月24日に開催された父の学校新宿7期の講義です。 金森一雄 


1.はじめに

最初に、

新約聖書のコロサイの信徒への手紙3:18~21を読ませていただきます。


18妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

19夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。

20子どもたちよ、すべてのことについて、両親に従いなさい。

 それは主に喜ばれることだからです。

21父たちよ、子どもをおこらせてはいけません。

 彼らを気落ちさせないためです。


皆さんは、「この聖書箇所は何度も聞いたよ、

男性として何をしなければならないかは

十分聞いていて分かっているよ。」

と思っておられると思います。


19節には、「夫たちよ、妻を愛しなさい。」

と前提条件なしで、語られていることに

私たちは注目しなければなりません。

私もそうですが、教えとしては

頭に入って分かっているのですが、

実は、心がついていかないと

ご本人も気が付いているのではないでしょうか。

今日は、そのことについて一緒に分かち合いながら考えてみたいと思います。


2.男性として抱えている共通の課題

ここまでの父の学校における学びの中で、

皆さんそれぞれに多くの気付き事項があると思います。

最初にお父さんと自分の関係を振り返り、

お父さんへの「感謝」の気持ちを整理して、

お父さん宛の手紙を書いていただきました。

そして、講義では、現代に生きる男性の「男性喪失の原因」について、

「9つの文化」を男性への誘惑として認識し、

ハート型の紙に、これまでの自分の罪を告白して、

焼却してご一緒に主に赦しを乞う祈りをしました。


このように、父の学校の学びと祈りを積み重ねていきますと、

男性として抱えている共通の課題があることが分かってきます。

大きく分けるとF、M、S 、P、Cの五つに分けられると思います。

それは、①F:父親のこと、②M:お金のこと、③S:性的誘惑のこと、

④P:プライドのこと、⑤C:コントロール(支配)のこと、となります。


①の「父親のこと」については、これまでの講義とディスカッションや

「父への手紙」をお書きいただくことで、整理が進んだと思いますが、

父親と自分、自分と子どもとの関係が

ぎくしゃくしていて整理できていない方が多いのです。


②のM:お金の問題は、仕事の問題とも言えます。

そして、この問題は、

男性ばかりか奥様方を含めた家庭の経済を支える問題となりますが、

仕事中毒症に陥る男性が多く、この問題のストレスを抱えて、深酒をしたり、

賭け事やドラッグの誘惑に負けてしまう人が多いのです。


③のS:SEXですが、性的誘惑はいつの時代にも男性の本源的に抱えるリスクで、

バランスの悪い自己実現を追及していくストレスから逃れようとする男性が、

生涯背負って行くリスクのようです。



3.男性特有のPC問題

これからの私の講義では、私たち男性の抱えている5つの共通の課題のうち、

四番目と五番目の、PC問題、

すなわち、P:プライドとC:コントロール(支配)の問題に

絞って話を進めさせていただきます。

 

実は、男性にとって、P:プライドというものが一番厄介な問題なのです。

お手元のテキストでは、(1)面子文化と記されているものです。

この問題についてお話を進めるにあたっては、

創世記のアダムとエバの話に遡らなければなりません。

創世記2章17節で、

「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」

と神に言われたアダムが、

その命令に反して食べてしまったときのアダムの対応に

その原点を見ることができます。

創世記3章11節で、

「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。

食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

と神さまから問われたアダムは、このように答えたのです。


「あなたが私のそばに置かれたこの女が、

あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 (創世記3章 12節)

というものでした。

「あなたが私のそばに置かれたこの女が」

という主語は、神さまを「あなたが」と言い、エバを「この女が」と言って、

神さまと愛する妻を重ね合わせて、

「二重の責任転嫁」をしている巧みな表現なのです。


最近評判となったテレビ映画の「半沢直樹」で言われていましたが、

「部下の手柄は自分の手柄、自分のミスは部下のミス(責任)」と、

知らず知らずのうちに犯してしまいがちな男の責任転嫁であり、

私は、ここに、男のプライドの問題の原点を見るのです。

アダムは、何故こうした答えをしたのだと思いますか?

皆さんでしたら、どのような答え方をされましたか?

善悪の知識の木からは取って食べたことについて、

アダムとエバのどちらの責任が重いとお考えになりますか?

私は、

「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」

と神に言われたのは、夫であるアダムなのですから、

アダムの責任は大変重いと考えます。

たられば、の話をしても仕方がないのですが、

アダムが、聖書に記されているような弁解や責任転嫁をしないで、

ストレートに「私が食べました」と言っていたら、

この話はどのようになっていたと思われますか?


他の研修で、夫婦の会話をしてもらい、

聖書の通りのやり取りをした場合と、素直に夫があやまった場合で、

愛する奥様の感じ方が大きく違うという

実験をしていただいたことがあります。

皆さんは、家庭内で何らかの問題が起きた時に、

愛する妻に責任転嫁するような対応をしたことはありませんか?

以前の私は、家庭で、いや社会の中でも、

自分の責任回避となるような発言や行動を

知らず知らずにしていたことに気が付きました。


自治会活動などでは、頭を下げるような事態がよく発生するのですが、

私は自分が上手に逃げて、妻を表に引きずり出していました。大反省事項です。

父の学校の学びの中では、

お父さんが率先して「自分が悪かった、ごめんなさい」

と言えるようになろうと努めています。

それでも、おいしいレストラン探しを家族でしているときに、

皆でこの店がおいしそうだと決めて入ったのに、

その選択が間違ったかな?と思う食事に出会った時などにも、

その店の決定には私は関係していないといった立場を探したり、

その責任逃れを自然にしている自分の姿に気が付きます。


私たち人間には、プライドという厄介なものがあります。

プライドがあったから続けられたことやプライドが支えになって

大きな成果を上げてきたことが多々あると思います。

私たちの仕事の領域でも、プライドが原動力となることが多いのです。

しかし、自分の罪や非に対し、

それを受け入れない時に、プライドが霊的な意味で問題になります。

イエス様を十字架につけた、律法学者や祭司長たちは、

なぜそのようなことをしてしまったのでしょうか?

当時の指導的立場にいた人々は、イエス様と比較されて、自分の立場が弱くなるとか、

自分の説が否定されて、自分の立場がなくなり、

プライドが傷つけられることを恐れたのです。


この男性のプライドの問題は、夫婦の間、また、子どもとの関係で、

霊的な問題を引き起こしかねません。

何故ならば、一番身近にいる妻や子どもたちは、

夫であり父親である私たち男性の弱さや心の闇に気が付いているのです。

そのことを夫あるいは父親である私たち男性に言ってしまったら、

男のプライドを傷つけてしまうと分かっているので、

多くの場合、妻たちは夫にそのことを指摘しないことが多く、

箪笥の奥にしまっているのです。

しかし、子どもたちの場合は、そのことに対する反発が、

思いがけないかたちで出てくることがあるのです。


このように、男性は、自分のプライドが邪魔をして、

間違えを認めることができないので、

愛する妻や子どもたちは行き場がなくなってしまうのです。

私たち男性は、アダム以来、この問題を抱えているのです。

次に、C:コントロール(支配)という問題です。


私は、我が家で最初にクリスチャンになりました。

その4年後に愛する妻が、8年後に一人娘がイエス・キリストを受け入れました。

先に洗礼を授かった私は、愛する妻や娘に対して、

聖書の読み方、QTの進め方、賛美の選定、教会生活や献金のことまで、

事細かに口うるさく指示をしていました。

私のほうから見れば、

お薦めの気持ちなのですが、妻と娘から見れば、

「お父さんは、自分たちをコントロール(支配)しようとしていた。」

と言うのです。

私の熱心さが余って、

聖書を振りかざして家族を思い通りに動かそうとしていたのです。


高齢化社会が進展していく中で、

子どもが独立していった後、

女性が自分の人生を見つめて歩んでいこうとするときに、

夫のコントロールの問題にぶつかるケースが多くみられます。

夫が定年退職して、夫のコントロールの問題に耐え切れなくなって、

離婚するケースも出てきています。

愛する妻を独立した人格として受け止めることは、

思ったより難しいことなのです。


そのためには、男性が神と向き合うのを避けないことが求められます。

神と向き合うためには、先ず男性が解放されている必要があるのです。

自分の醜さ、いやらしさ、汚れと罪に満ちた真の姿を知り、

罪人の頭(かしら)、愚か者の頭(かしら)と本当に認めたところから、

男性は、真の意味での神さまとの和解をして新しい出発が始まるのです。


キリスト者の中には、このようなアダムとエバの話から、

人間の「性悪説」を主張する方が多いのですが、

皆さんは、人間の性(さが)についてどのように考えますか。

私は現在、カップヌードルでお馴染みの日清食品で、

法令順守を指導する監査役をしています。

そして、監査役という業務を果たしていく中で、

「性弱説」の立場をとっています。


「人は、生まれながらにして、善とか悪とか決めつけるべきものではない。

人は、生まれながらにして、種々の誘惑に対して弱い存在である。

誰もが、いろいろな誘惑によって

不正や過ちを犯してしまうリスクを常に持っている存在である。」

と考えるのが、「性弱説」なのです。

人は、強がりをするのですが、実は弱い存在なのです。

だから条件さえそろってしまうと、どんなにいい人、

どんなに立派だと思われている人も、道を誤る可能性があるのです。


そうした失敗事例は、周囲に山のようにありますね。

このように話してまいりましたが、

このような課題を与えられているのは私自身なのです。

ですから、今日は自分の男としての弱点をしっかり認識して、

弱さを克服していくことの大切さについて一緒に考え、

祈り合う時間とさせていただければと考えているのです。



4.キリストと教会の関係から学ぶこと

ところで、エフェソ5:25には、次のように記されています。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、

あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

 

もう少し時間をいただいて、

「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をささげられたように、

あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」

という言葉について、一緒に考えていきましょう。

 

妻を愛するとはどのようにするのでしょか?と皆さんに問いかけると、

誕生日にはバラの花を必ず贈っているとか、皿洗いをしているとか、

先の講義でやったように愛する妻に手紙を書く、

一緒に祈るといった答えが返ってきます。

確かに、そうしたことも愛することとして大切な行動だと言えるのですが、

ここでは、「キリストがされたように」と聖書に書かれているのですから、

キリストの愛について学びを進めてみましょう。


私たちは、イエスの行動の中から、 「ご自分をささげられたように」という

行動をしっかり認識する必要があります。

聖書の中から、それを探るわけですが、皆さんは何を思い起こしますか?

皆さんがイエスの行動の中から第一に思い出されることは、

やはり何と言っても、十字架に架かられたイエス様の姿でしょう。

ローマ5:8には、明確にキリストの愛について記されています。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、

キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

とすれば、

私たち夫は、妻のために死ぬことが求められているということになります。

どうすることが、妻のために霊的な意味で死ぬことになるのでしょうか?

皆さんちょっとしーんとしてしまいましたね。

実は、それはかけ離れた霊的な世界のことを言っているのではなく、

妻の話を聞くという最も身近なことの中で実現されていく、

ということを、今日はお話ししたいと思うのです。

愛する妻の話を聞くというのは、

その場にじっとして耳を傾けるということなのですが、

そこにはキリストの犠牲にも似たものが求められています。

私は、職場の仲間との話の中で、疲れて家に帰った後、

妻がPTAの話や近所で起きた日常的な話を自分に語りかけてきたときに、

どのような対応をするか話し合ったことがあります。

ノンクリスチャンの同僚が、

「適当なタイミングで『それは難しい問題だね』と言うことにしている」と

自信満々に語るのを聞いたことがあります。

本当にそれでよいのでしょうか?

私も、自分が徹夜明けでとても疲れていた時に、

愛する妻がPTAの奉仕の話をあれこれと熱く語っているときに、

これをやってみました。

「ふーん、難しい問題だね」と。どうなったと思いますか。

答えは容易に想像できるので、

賢明な皆さんは、そうしたチャレンジはされないと思います。

賢い愛する妻は、夫が心から耳を傾けているのか、

それとも上の空で聞いているのかはすぐに見抜いてしまいます。

 

夫が妻の話を聞くためには、自分を無にする努力が必要です。

時間を大切にするタイムマネジメントを自然にしてしまう習性も、

結論を出したくなる誘惑も、

テレビを見たくなったり、新聞を読みたくなる思いも、

その時には我慢しなければなりません。

ともかく愛する妻の話に耳を傾けていくのです。


男とは異なる女のメカニズムとリズムを聞き取ることに

心を向けて聞いていくのです。

それが、妻のために霊的な意味で死ぬことになるのです。

こうして、妻にリズムを合わせることができれば、

自然と子どもにもリズムを合わせられるようになります。

このことの真の意味は、

愛する妻や子どもを喜ばせるために耳を傾けていくのではなく、

自分がキリストのように生きることを求め、

その具体的なこととして妻の話に耳を傾けていくことなので、

まさに、生活の中での霊的な生き方にかかわることなのです。


愛する妻が望んでいることであれば、花を買うこともよいでしょう、

皿を洗うこともよいでしょう。

月に一度は、一緒に外食をしたり、映画を見るのもよいでしょう。

それらのことが、

こうすれば妻が喜ぶとか、夫の愛の表現になるに違いないといった、

男性の思考体系の中から出てきた、

夫の勝手な思い込みで行った行動でないことを祈ります。


本当に大切なことは、

愛する妻の心を真正面から受け止めていかなければならないことであり、

だからこそ「キリストがそうされたように」

ということと結びついてくるのです。

妻の話を聞くには、

男性として持っている、これまでの経験から自分で確かだと考えている、

基準や枠組みを一度捨てなければなりません。

しかも、妻が自分とは違った存在であることを認めなければなりません。

これらは、まさに男性のプライドにかかわることなのです。

妻の話を聞くためには、

アダムから受け継いでいる自分のプライドと、

女を支配する気持ちを、押さえなければなりません。

男性にとって、自分と異なる世界を理解するのは、本当に難しいことなのです。


妻の話だけでなく、子どもの話を聞くことも同じで、

妻の話に耳を傾けることができれば、

子どもの話にも耳を傾けていくことができます。

それは、必ずしも子どもの話が分かるということではありません。

しかし、聞こうとしている父親の姿勢は分かってもらえるのです。


このようにお話してきましたが、

キリストがそうされたように妻を愛することを実践し、

その模範になると思える人は少ないと思います。

私も、ようやくそのことに気が付いて、

抜本的な我が家の耐震補強工事を始めたばかりなのです。  


5.終わりに

キリストのように妻を愛するということは、

男性にとって真の霊性が問われることとなります。

奥様方は、ご納得いただいているようですが、

実は、聖書には、我々男性の側への薦めの前に、

妻に対して、コロサイ3:18で

「夫に従いなさい」

とあることは、お気付きでしょうか。

聖書の薦めについては、私たち人間がなかなかできそうにないので、

愛なる神さまが私たちにアドバイスを送ってくださっているのです。


奥様方が夫に従い、

一方で、夫が妻を愛し、妻の話を聞くことができるようになれば、

必ず変化が起こってきます。

その変化は、夫婦の関係だけにとどまらず、

子どもたちにも及んでくるのです。

さらに、私たちの接している会社や教会、社会にも及んでくるのです。


父が生きれば家庭が生きる。家庭が生きれば教会が生きる。

教会が生きれば社会が生きる。社会が生きれば日本が生きる。

日本が生きれば世界が生きる。

ということが、私たち父の学校運営委員の信じるところなのです。

私たちが、キリストに従って行くことができるならば、

神さまは必ずそれをよしとして、祝福を持って臨んでくださいます。

しかも、思いがけないかたちで恵みが届いてくる。

という強い確信を私たちは持っているのです。



(時間があれば、お奨めタイム・・・)

ここで、第一コリント13:4~7を改めてお読みします。  

何回も耳にした聖書箇所だと思いますが、

今日、皆さんはどのように受け取られますか?

結婚するときに読むことなのでは?などとは言わないでください。

今日、この聖書箇所から、何かを感じてください。


4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。

愛は自慢せず、高慢になりません。

5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、

怒らず、人のした悪を思わず、

6不義を喜ばずに真理を喜びます。

7すべてをがまんし、すべてを信じ、

すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 
 
 

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