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執筆者の写真Kazuo Kanamori

父への手紙

更新日:2021年9月10日

本稿は、2011年1月に開催された父の学校新宿6期で作成した「父への手紙」です。 金森一雄


お父さん いつもそばにいたのに、お父さんのことをほとんど考えないで、

毎日毎日現実の忙しさにまみれて生活していましたが、

2011年1月、「父の学校」に入学して、

「お父さんに捧げる手紙」を作成する幸いに遭遇しました。

この「父の学校」では、「お父さんは自分の人生でどんな人だったろうか」と

考えるカリキュラムが用意されており、

今、この手紙を書きながら感無量に浸っています。

雅葉が一人暮らしを始めて一人前に巣立ったと安堵した矢先、

雅葉の心の疲れが見つかったこともあり、

地域開発で建て替えられた晴海のマンションで、

もう一度家族三人の生活に戻りました。

災い転じて福となると言いますが、こうした家族生活を送る中で、

お父さんの笑顔の後ろにあるお父さんの深い愛を少しは分かるようになりました。



 

先の戦争の召集令状を受け取りお母さんと結婚、

戦場の中を生き残り、シベリア抑留となったにもかかわらず、

昭和23年にお父さんが何とか本土舞鶴に生還を果たしたことが、

私がこの世に生をいただいた奇跡の布石となっています。

戦後の大混乱の中で、すぐ上のお兄さんの世話をいただいて

建設関係の新設会社に職を得て、

リュック一つでお母さんといっしょに立ち上がり、

休みもとらずに家族のために働いた話はこれまでに何百回と聞かされました。


両親を子供のころに亡くし、

着るものから学校の教科書までお古ばかりだったと語るお父さん。

友達の呉服屋に丁稚奉公したテレビドラマおしんの男性バージョンのようなお父さん。

社会の規範を尊重して、その中で良い評価を得て、

堂々と生きることを旨として、

戦後の働き蜂人間の代表格の生き様を示したお父さん。

それでも、たまの日曜日には家族四人でデパートや動物園に行きましたね。

私は外食の時には、誰がなんと言っても鰻丼とチョコレートパフェを注文していました。

都電の停留所から自宅までの約2Kmの坂道の帰り道を泣きながら歩かされました。


私が玩具の電気機関車や自転車を買ってもらいたいときには、

デパートの売り場で泣きながら座り込みの実力行使をしたことも

昨日のことのように覚えています。

私が無免許運転で会社のクラウンを茨城の田んぼに落としたとき、

その後田んぼの所有者が我が家に遊びに来ていましたね。

私の起こした事故の相手の方と親しくしていただいたと思っていました。

その方は保険の代理店をしていたので、実はお父さんが保険に加入することで、

私の起こしたこの事故で迷惑をかけた償いをお父さんがしていたということは、

ずっと後になってお母さんから聞かされました。

私の友人関係、進学、就職、結婚など、人生の多くの岐路にあっても、

お父さんは何一つ苦言を呈さず、ずっとただ私を見守ってくれましたね。



圧巻は、私の洗礼式。お祖父ちゃんの命日にはお経を自ら唱える、

こてこての浄土真宗の檀家なのに、

「人が信仰を持つことは良いことだ」と言って出席してくれましたね。

教会の記念写真の真ん中に笑顔で写っています。


そんなお父さんが大声を上げて怒鳴ったのは、

20年ほど前ですが親子二世帯同居住宅建設を計画したときに、

私と間取りについての意 見が合わなかったときと、

5年前に「伝道のために親の家に来るなら、もう来ないでくれ」と言ったときの

二回だけのような気がします。

隣に住む姉の正枝が、「お父さんにあんな言い方をされたのに、

よく一雄は平気な顔をしで帰ってくるね」と今でも言っています。

この点については、クリスチャンの友人で親を先に亡くした方から、

「後悔しないように、もっともっと頻繁に親のところに顔を出してください」

とそばで私を励まし続けてくださっていたからなのです。


14組の仲人をしたことも素晴らしいことと尊敬しています。

彼らをずっとサポートをしてよく若い人を育ててきましたね。

お金を残すのは三流、名前を残すのは二流、人を残すのは一流の人物。

子どものころから、私は子どものころから、お父さんの会社の若い人たちと、

スケートに行ったり遠泳をしたり温泉に行ったり、

その仲間に子どもの私も平気で加わり楽しんできました。

会社の若い人たちを、よく家に連れてきてご飯を食べさせ、

打算的でも利己的でもなかったお父さん。

いつも他の人に何かをあげてこそ気が楽だったお父さん。


80歳で現役を退いてからは、居間のテレビを三台同時につけて一人居座るお父さん。

昨今のお父さんの一日一日が、

忙しいお父さんがこの時になって本当にしたかったことをしている姿なのですね。

「今の自分があるのは、シベリアから帰還後最初の就職を世話してくれた死んだ練馬の兄

と母さんのお陰だ」とことあるごとに演説している真っ正直なお父さん。

そしていつもお父さんをそばで支えてきたお母さん。

私は、こんな素晴らしい両親に心から感謝しています。

2011年1月31日

 66回目の結婚記念日おめでとうございます。   長男 一雄より





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