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執筆者の写真Kazuo Kanamori

わたしの聖なる山

更新日:2021年9月10日

本稿は、2010年12月26日の土気あすみが丘教会主日礼拝の信徒奨励を平易にまとめたものです。金森一雄


狼は子羊と共に宿り

豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち

小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ

その子らは共に伏し

獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては

何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように

大地は主を知る知識で満たされる。

    (イザヤ書11・6~9)




1.はじめに

主の御名を賛美します。

昨年、この新会堂を献堂させていただき早くも二度目の新年を迎えようとしています。

この間、イエスさまが私たちの教会を殊のほか愛してくださり、

格別の哀れみをもって導き続けてくださったことを感謝しています。

本日は、旧約聖書イザヤ書からお話をさせていただこうと思います。

皆さんのこの一年はどのようなものだったのでしょうか?

今日のこの日、この聖堂に集った皆さんとご一緒に、

この一年のそれぞれの日々を顧みて、

驚くばかりの恵みの数々を数えて主に感謝を捧げるときをもたせていただくときと

なりますようにと祈りながら、この講壇に立たせていただきました。

2.イザヤ書11章1節~5節

皆さんよくご存知の通り、聖書の数多くの箇所で、

ユダ族のダビデの子孫からイエス・キリストが出ることが預言されています。

しかしメシア預言と言われているイザヤ書11章1節では、

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」

と記しています。

本日はまず最初に、私たちの救い主イエス・キリストの根株を、

何故、ダビデの父親エッサイの株と記して、ダビデの根株としていないのか、

その理由について考えることから始めてみましょう。

これに先立つイザヤ書10章では、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされること、

そして南王国ユダのダビデ王朝も切り倒され、切り株しか残らないと預言されています。

数年前、我が家の庭の東側の大木が朝日を遮ると言うので、

庭師に頼んで根元から切り落としたことがあります。

私たち素人が、庭木の枝を下手にカットしただけで木が枯れてしまうことがありますが、

根元から木を切り落としますとほとんどの木は枯れてしまいます。


イザヤ書9章10節では、当時のイスラエル民の驕り高ぶりの様子について、

「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き、

桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」

と言っていると記されています。

自分たちは神の民であり、とこしえまで堅く立つ民族なのだと言って、

驕る心に包まれている様子です。

ついこの間までの、バブル経済崩壊前の何でもありと嘯(うそぶ)いていた

現代に生きる人々の驕りと同じようなものかも知れません。

これに対し、イザヤ書10章23節では、

「万軍の主なる神が、定められた滅びを全世界のただ中で行われる」

と預言し、ダビデの王座を信じて驕り高ぶっていたイスラエルの民に対し、

神さまが厳しいチャレンジを行って、大木を根元から切り落とすと強調したのです。

そして、その切り株を、あえてダビデの名を用いずその父親のエッサイの名を用いて、

「エッサイの株」からの新芽と表現して、

主の哀れみによりダビデの子孫として救い主キリストが誕生することを預言し、

イエス・キリストの正義と真実が世界に行き渡ると記したのです。

3.イザヤ書11章6節~9節

前置きが長くなりましたが、

本日司会者が読んでくださったイザヤ書11章6~9節に戻りましょう。

ここでは、イエス・キリストのもたらしてくださる平和の情景が描かれているのです。

狼と子羊、豹と子山羊、さらには若獅子と子牛とが共にいると預言されています。

ここでとりあげられた動物は、

自然界においては食べる側と食べられる側の関係にあります。

それなのに、共に宿り、共に伏し、共に育つというのはどうしたことなのでしょうか。

さらに、7節では、牛と熊が共に草を食べ、獅子も牛のように干し草を食べています。

そして8節では、乳飲み子が毒蛇の穴に戯れ、

乳離れした幼子は蝮の巣に手を差し延ばしているというのです。


これらの聖書箇所から、皆さんは何を感じ取りましたか?

恐らくこのようなことは、この世ではあり得ない、どうなってしまったの?

といった反応が自然なものだと思います。


続いて、9節では、

「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」

と戦いのない平和な世界が記されています。

今日のメッセージのタイトルは、

「わたしの聖なる山」とさせていただきましたが、

この「わたしの聖なる山」とは、どこにあるのでしょうか?

そして、私たちは果たしてこの聖なる山に登ることができるのでしょうか?

 

今朝は皆さんに、さらにもうひとつお願いがあります。

このイザヤ書の聖書箇所では、たくさんの動物と子どもたちが出てきましたが、

皆さんにこの聖書箇所の中に入り込んでいただき

聖書劇の役者になっていただければと思うのです。

皆さん、どの役を選ばれますか?

皆さんが選んでくださるとしたら、私はおそらく狼でしょうね。

百獣の王ライオンはどなたでしょうか?熊はどなたですか?

可愛い子羊役は?子山羊役はどなたにお願いしましょうか?

それでは、コブラは?皆さんお一人お一人が、どの役をしてくださるのか、

心の中で思い描いてください。

この聖書箇所の動物役であれば、どんな動物の役を選んでいただいても良さそうですね。

皆が仲良くしていて、

「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」 

 (イザヤ書11章9節)

のですから。

皆が実に仲の良い、平和な世界なのですから。

まさにこの聖書劇は、イエス・キリストの支配がこれほどまでに

平和に満ちたものだということを示しているものなのです。

4.食足世平(しょくそくせへい)

「衣食足りて礼節を知る」という諺はよくご存知だと思います。

私は60歳を迎え、神さまに命じられてカップヌードルでお馴染みの

日清食品という会社に遣わされて働かせていただくことのなりました。

日清食品の創業者安藤百福氏が制定した企業理念の第一に

「食足世平(しょくそくせへい)」という言葉があります。

「食足世平(しょくそくせへい)」の意味するところは、

「食足りてこの世は平らになる」というものですが、

創業者の安藤百福氏は、

「文化や芸術、経済活動を行うにも、

まずお腹が満たされていなければ気力も充実しないし、

豊かな発想も浮かびません」と語り、

「食足世平(しょくそくせへい)」ということばは、

食品業界一筋に生きた安藤百福氏の一貫した事業指針となりました。

「食足世平(しょくそくせへい)」と「衣食足りて礼節を知る」という二つの言葉は、

同じような意味を持つことばとして重ね合わせることができると思います。

確かに、今日のイザヤ書に記されている「聖なる山」での平和が実現するためには、

先ず食が満たされていることがその大前提にあるのだと思います。

聖書では、食の問題について、たくさんの箇所でふれられていますので、

もう少し調べてみましょう。

このイザヤ書11章7節では、

百獣の王ライオンが草を食べているという記載がありますが、

天地創造の第六日に神さまは人を創造されましたが、

創世記1章29節には、

「見よ。全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、

すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」

と仰せられたとの記載がありますから、このときの人間は草食動物だったのです。

精進料理と言えば京都。たまには良いのですが、

血の気の多い私には、時期尚早のようでもの足りません。

やはりお肉が食べたくなります。

今年のクリスマスイブにもやっぱりお肉がなければと、

我が家でも薄いステーキを食べました。

 

創世記9章3節には、

ノアの洪水の水が引いた後、箱舟から出たノアと、その息子たちを祝福して、

「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。

わたしはこれらすべてのものを青草と同じようにあなたたちに与える。」

と神が語ったという記載があります。

ですから、私たち人間はノアの洪水以降に、肉を食べることになったことが分かります。


もう少し「食」について聖書をひも解かせてください。

エジプトの苦役から脱出したイスラエルの民は、その二ヶ月半後、

シンの荒野で飢え死にしやしないかという不安に苛まれます。

そのときに神がイスラエルの民に与えてくださったものが「マナ」という食べ物です。

出エジプト記16章で

「荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。」

  (14節)、 

「コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」

  (31節)

と表現されている「マナ」です。

そして、イスラエルの民は約束の地カナンの境に来るまで、神の恩寵により荒野の中で、

40年にわたってこのマナを食べたのです。

イスラエルの民にこうして「マナ」が毎日与えられ、

食べ物のことで心配する必要がなく飢え死にする心配がなくなったのですが、

人の欲望は尽きません。

民数記11章5、6節には、

「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、

葱や玉葱やにんにくが忘れられない。

今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」

とイスラエルの民が泣き言を言ったと記されています。

これに対しても、

「主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、

宿営の近くに落とした。」

 (民数記11章31節)

とあり、神が天からうずらの肉を与えるという奇跡を示してくださったのです。


さらには、荒野で飲む水がない時は、

ホレブの岩を杖でたたき水を出してくださる(出エジプト記17章6節)

という奇跡を示し、

後に、岩なるイエスをたたくことによって私たちの贖いとし、

岩なるイエスの十字架上の死を経て

私たちに永遠に渇くことのない聖霊を与えてくださるという、

すべての人の救いのひな型を示してくださったのです。


それなのに、現代に生きる私たちを投影するかのように、

イスラエルの民の神さまへのつぶやきは、まだまだ続きます。

このように聖書の中では、明らかに「食足世平」とも「衣食足りて礼節を知る」だけで

平安を得られるとは言っていないのです。

すべてを自分で得たものと考えると人間の欲望には際限がなく、

人々のつぶやきの源は、驕る心、人々の不信仰、主を第一にしない人々の姿勢にあると

指摘しているのです。

ですから、すべては神さまの恵みであると感謝する心に包まれたとき、

そこに聖霊が働き、主を知る知識に満たされ平安を得られるのです。

そしてイザヤ書11章9節の後段では、

「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」

と預言し、イエス・キリストを信じる者の心の中に、人間の知恵では理解できず、

人間の努力によっては勝ち取ることができない深い海のように、

主を知る知識で平安に満たされると預言されているのです。


5.主を知る知識

それでは、キーワードとなる主を知る知識は、どのようにすれば得られるのでしょうか。

私がこの主を知る知識をどのようにして得ることが出来たのかについて

証しをさせていただきます。


私は、1949年(昭和24年)8月8日生まれ。団塊の世代の一員です。

「押しくら饅頭、押されて泣くな。」という遊びがありました。

押し出されたら負けなのです。

泣いたら置いていかれるだけなのです。

このような教育方針の中で何の悩みもなく育ちました。

目指すは、良い成績をとって良い学校に行き、

良い会社に入って高いポストに就き高給をいただく。

そうすれば、家族は自動的に幸せになれる。

まさに、このような人生観の中で育ちました。

中学受験で、最難関の一つであった私立中学に合格、K大に進み、大学卒業と同時に、

東京都の金庫番と言われていた富士銀行に入社。

両親も喜んでおり、何と親孝行な息子なのだろうとうぬぼれていました。

銀行に入社すると、同期180人の出世競争が待っていました。

減点主義と言われる銀行の中で、

失点せず如何に良い業績を挙げられるかと奮闘して来ました。

弱肉強食を自然界の摂理として受け止め、自分の生きる世界においても

自己実現だけを目指すことがすべてという醜い自分の姿がそこにありました。


入社12年目、国際企画部に勤務していた時に、共に働くオーストラリア人スタッフから

「金森さん、神さまっていると思いますか?天皇陛下は神さまですか?」

と突然聞かれました。

その時まで、神について考えたこともなかった私は、ひどい話ですが

「神さまは、君のボスである私だよ。天皇陛下は人間だ。」と彼に答えました。

それでも彼は私に母国語の英語ではなく、日本語の聖書を私に手渡してきました。

この時から私は、持ち前の負けん気の強さを発揮して、

外国人の部下に日本語の聖書読解で負けてはならないと、

聖書を必死に学び始めました。


それから10年を経て、神さまの愛の手が強烈に私に覆いかぶさって来ました。

当時通い始めていた教会の主日礼拝の真っ最中に、

私は教会堂の中で突然倒れてしまいました。

ワークホリック銀行員としてそれまでろくに休みも取ったことのない私が、

そのまま三日間ベッドに横になり会社を休みました。病名はヘルペス(帯状疱疹)。

発症する箇所が悪かったりすると命も奪いかねない病気だと医者に告げられ、

安静するよう言い渡されました。


その時、ベッドの中で読んでいた聖書箇所が、

マルコ2章の収税所に座っていたレビとイエスが食事を共にしたところでした。

レビの主催するイエスとの会食会の席に、

徴税人や罪人が同席していることを

ファリサイ派の律法学者たちが怪訝に思っていたときに、

イエスが語ったことばに私の目は釘付けになりました。


「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)

というところで、それまで何度も目にした聖書箇所でしたが、

突然、「自分は、元気印の人間だと思っていたけれど、心の病人なのだ。」

と分かったのです。


自分は罪人だ。私を招くためにイエスさまがこの世に来られ、

私の罪を贖うために十字架に架ってくださったのだ。

ということをしっかりと心で受け止めることができて、自然と涙がこぼれ出ました。

この時私に聖霊が下り、私は主を知る知識に満たされたのです。

自分の努力による聖書研究の結果、この真理を理解出来たという訳ではないのです。


それからの私の物事を決断する際の優先順位は、完全に変わりました。

「①自分、②会社、③家族」の順から、

「①神さま、②家族、③会社」の順に変わりました。

「自分」から「神さま」へと、自己実現を目指す人間から神さま第一へと

人生の優先順位の大転換が起こりました。

6.「わたしの聖なる山」という情景

イザヤ書11章6節以降に戻りましょう。

狼と子羊が共に宿り、牛と熊が共に草を食べ、互いに害を加えないという聖書箇所です。

この情景を目をつぶって心に思い浮かべてください。

狼と子羊、豹と子山羊、さらには子牛、若獅子、小さい子供が戯れているのです。

牛と熊が共に草を食べ、獅子も牛のように干し草を食べています。

乳飲み子が毒蛇の穴で戯れ、

乳離れした幼子は蝮の巣に手を差し延ばしているというのです。

私は狼の姿でいるのです。

ライオンさんは?熊はどなたでしたか?子羊、子山羊は?コブラは?

どの動物も、そのままの姿で聖なる山に生かされているのです。

この聖なる山の情景は、この土気あすみが丘教会のようでしょう?

お隣にお座りの方の本性は分かりませんよ。優しいのか、噛みつくのか。

今年の8月の教会懇談会において、私は大失態を仕出かしました。

議長の議事運営に納得できず心の中に怒りさえ覚えてしまったので、

心の中で唸り声を挙げて静かに、懇談会を中座してしまいました。

一般社会では、会議中の無断退席という行動はゆるされないものです。

懇談会に参加していた皆さんからも非難されるでしょうし、

何よりも議長の牧師との間も深い溝ができかねないものです。


私は、懇親会の中座を皆さんに正式に謝罪することなく、今日まで来てしまいました。

たいへん失礼な話ですが、

ここで改めて、先日の私の不作法について皆さんにお詫びさせていただき、

主の御前で赦しを乞いたいと思います。

議長をしていただいていた牧師には、私は、あのような議事運営は嫌いであり、

怒りさえ覚えてしまったことを改めてお伝えしましたが、

それでも私が断りもなく中座したことは礼儀正しくなかったと謝罪しました。

開き直るような発言に聞こえてしまうかもしれませんが、再び同じような事態があれば、

自分の心を押さえきれないかも知れないと不安です。


私たちは主を知り、主の哀れみをいただいて、

自分の至らなさの中に主が大きく働いてくださるという恵みに感謝しつつ、

自分の姿、本性を抱えたまま生きて行くのです。

お互いに嫌いな点、共感できない点があっても、

互いを害することなく、今、この礼拝のこのときのように、

共にみことばを食し平和に歩んで行かれれば嬉しいですね。

 

そうした情景をイザヤ書11章8節では、

「乳飲み子が毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」

とイザヤが預言しているのです。

乳飲み子や乳離れした幼子は、私たち人間の総称です。

そして、蝮とは、イブをそそのかした蛇、サタンです。

まさに、人間がサタンと共に、聖なる山にいると預言しているのです。

7.土気あすみが教会への適用

主を知るクリスチャン同志が、お互いの性格や意見の違いを際立たせることは

避けるべきことです。お互いの背後に、イエスさまがおられることを見つめるべきです。

難しいことではありますが、

お互いの違いそのままを受け入れることが大切なのです。

主にあって私たちは一つなのですから。


イエス・キリストが、私たちの罪を贖うために十字架に架り血潮を流されたのですから。

イエスさまが、私たちの仲介役なのですから。

私たち一人ひとりが、イエスさまの救いの御業を信じたときに、

神の国発行のパスポートをいただいているのです。



今この聖堂に集い、共に主を賛美し、礼拝している皆さん。

同じ神の国発行のパスポートをお持ちの皆さん。

その恵のパスポートを盗賊であるサタンに奪われることのないようにしてください。

「聖なる山」から自分から一人で下山してしまう、

教会から離れてしまうようなことがないよう、

私たちの信仰が弱まることのないようお祈りをしましょう。

そして、2010年の一日一日を私たち一人ひとりが

イエスさまの恵みと哀れみの中で聖霊に包まれ、

何とか今日まで、生かされてきたことに感謝して、ご一緒にお祈りしましょう。

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