クリスチャン新聞 2004年9月12日、19日、26日号に連載
Kazuo Kanamori Speaks to Mr.Fujioka クリスチャン新聞 藤岡竜志(記)
2004年9月12日号「銀行員から新たな出発」
「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」
(ルカ6・31)
富士銀行、みずほコーポレート銀行と32年間の銀行員生活を経て、2004年3月に 同グ ループ内の日本橋興業株式会社代表取締役専務に就任した金森一雄さん(55)=久喜福音自由教会員は、同社の社内報にこの聖書の黄金律を自身の企業人行動理念として 紹介した。
インターナショナルVIPクラブ大手町の会長などを務め、ビジネスパー ソン伝道に積極的に関わってきた金森さんは、この言葉を実践することでビジネスを 通して福音を伝えてきた。
1.断りのあいさつ
「銀行に入るつもりはなかったです」。金森さんは銀行生活の始まりをこう振り返る。
慶応大学商学部の3年次、計量経済学を学ぶゼミナールのゼミ長を務めていた。 当時、そのゼミからは毎年一人富士銀行(現みずほグループ)に内定者を送っていた。 時はちょうど「いざなぎ景気」。就職戦線は超売り手市場だった。その年はゼミの中で富士銀行への入行希望者が出ず、ゼミを代表して金森さんが断りのあいさつを同社人事部に申し出に行った。
「それは困るな。君はどこかに決まっているのかね。責任をとってゼミを代表して君が入りたまえ。銀行なら君が考えていることは全部できる」。当時の採用責任者は強引に金森さんに入行を勧めた。「当時としては変わり者だったと思います。アメリカのように将来リース業が成長するだろうと考え、リース会社に入ろうと思っていたのです」。57か月という長期景気の影響で産業界では積極的な設備投資が行われていた。それに伴いリース会社の設立ラッシュが起きていた。しかし、オリックスなどのパイオニアさえも無名だった時代。リースという新しい金融手法がここまで一般化すると思っていた人は少なかった。
「銀行は堅苦しくて嫌だ、といったイメージがありましたが、日本一の銀行ならいいかということで決めました」。71年の1月だった。
2.銀行員としての出発
72年4月、富士銀行に入行。医療、出版業界の多い東京大学のある本郷支店に配属され、銀行マンのスタートを切った。75年には本店営業部に異動。二百海里問題で揺れていた水産業界と、「泳げたい焼きくん」の大ヒットを飛ばしたレーコード会社など放送業界を担当した。その後、新橋支店、虎ノ門支店など都内の重要支店に転勤。 支店長代理、副支店長と順調に昇進していった。「都市銀行という競争社会に身をどっぷり漬けて、出世街道の先頭を歩みました。『よく学び、よく遊べ』をモットーに、典型的なワーカホリック状態でした」
2004年9月19日号「体の病人ではなく心の病人だった」
1.聖書との出合い
80年代に入り日本は土地投機などを中心としたバブル経済にわいた。金森さんは、国際部で海外に支店を新設したり、海外に派遣する人員枠や稼ぎ出す予算を策定する仕事に就いた。「ハーバード流経営学よ、さようなら」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれ、日本中が浮かれていた。ある日、シドニー大学を卒業したばかりの新入社員コリン・ノーブルさんが「金森さん、神様っていると思いますか」と尋ねてきた。「びっくりしました。神なんてそれまで考えたこともありませんでした。おれが君のボスだ。おれが君の神様だよ、とうそぶくありさまでした」。
牧師家庭に生まれたコリン・ノーブルさんは収益至上主義の職場に戸惑いつつも上司の金森さんに日本語の聖書をプレゼントし、暇さえあれば聖書に基づく世界観などを話し合った。その後、同行を退職してシドニー大学の教授に招かれるが、帰国後は、知人の宣教師を金森さんに紹介し福音を伝え続けてくれた。
2.イエスとの出会い
こうして聖書とは出合ったものの、素直に信仰をもつまでには至らなかった。90年代に入り一転して日本は「失われた10年」「バブル崩壊による新たな創造」といわれる時代になった。バブルに浮かれ荒廃した人心の回復を図って各企業がコンプライアンス(法令遵守)のマニュアル作りにやっきになっていた。金森さんも銀行の事務手続きやシステムを制定する業務に就いた。そこで予期せぬ事故が次々と発生する。一度緩んでしまった人間のたがは急には直らなかった。 「イライラが募り、自分の力では『どうすることもできないものがある』ことを認めざるをえませんでした」。
それでもまだ自分の力で何とかしようとした金森さんはもがき苦しみ、疲れ果てた。
その時に再び手に取ったのが聖書だった。この荒廃した社会の中で正真正銘の企業倫理が必要だと思ったからだ。以前は、なかなか頭に入らなかった聖書の言葉が砂に水を注ぐように心に入ってきた。さらに聖書理解を深めたいと自宅の近くの教会に通い始めた。
3.礼拝で倒れる
93年に恵比寿支店長として赴任した。新都市空間開発プロジェクトとして注目を浴びた恵比寿ガーデンプレイスが完成間近に控えていた。
「新しい街に流れ込む人、物、金すべてが溢れていました。新しい仕事を獲得するために力の限り働きました」。日々の仕事に疲れ果てながらも、日曜日には「何か」を求めて教会に通っていた。ある日、礼拝中、高熱を出して倒れた。体全体に湿疹が広がり、命の危険もあるヘルペスと診断された。一度も会社を休んだことがなかった金森さんが初めて3日間ベッドで寝込んだ。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2・17)。
ベッドの上で聖書を読んでいると、この聖句に目がくぎ付けになった。「自分は体の病人ではなく心の病人だということに初めて気づいたのです」。イエス・キリストを信じ洗礼を受けた。45歳だった。
2004年9月26日号「『自分に』してもらいたいとおりにが黄金律」
1.クリスチャンビジネスパーソンとして
95年にバブル後遺症で悩む企業の財務面の手当て、特に不良債権を処理し、再建を支援する審査セクションに異動。大手町の本店に通うことになった。02年4月には、企業の生き残りをかけて富士銀行、第一勧業銀行、日本興業銀行の3行が統合した。同時に大企業を主な取引先とする「みずほコーポレート銀行」と、それ以外のすべての取引を行う「みずほ銀行」の二つに分割された。金森さんはみずほコーポレート銀行の企業再生事業を担う執行役員に就任。富士銀行で培ったノウハウを活かして、みずほコーポレート銀行の取引先にも手術の手を伸ばした。
関係者に不良債権処理の協力を求め、どこまでロスを覚悟するか皆の意見をまとめることが大変だ。ある時、折衝が大詰めになったところで、双方の主張がぶつかり険悪なムードになった。「協力が得られないのなら、この手術はできない」。思わず大きな声を張り上げた。すぐ冷静さを取り戻して、「しばらくして祈らせて欲しい」と断り、その場で声を出さずに心の中で「神様助けて下さい。みこころをお示し下さい」と祈ったという。他行の応接室。いっしょにいた金森さんの仲間も、頑なだった折衝相手も呆然としていた。
「祈り終わると高揚した気持ちは収まり、平安が守られました。人事を尽くして天に委ねる。イエス様が救ってくれました」。祈りの後、その場にいた全員が全面的な協力姿勢に変わっていた。
2.新たな出発
このように、金森さんはことさらに理屈で職場伝道をするのではなく、自らの仕事ぶりを通して関係者に福音を証ししてきた。特に自ら宣言していないときにも、あっという間にクリスチャンだということが社内に広まっていった。
2004年4月には32年の銀行員生活を終え、みずほグループ内の企業である日本橋興業株式会社の代表取締役専務に就任した。同社の業務内容は、みずほグループをお客様の中心とする不動産賃貸、開発、販売事業。今まで経験のない新しいビジネスだ。退職時にはみずほグループに勤めるクリスチャンたちが送別会を開催し、新たな宣教地への旅立ちを祝してくれた。
「これまでの銀行生活の中でいつも心がけてきたのは『お客様満足』です。これは商売の原点ですが、お客様の望むことを無定見に対応していてはビジネスは成り立ちません。自分がお客様と同じ立場、同じ気持ちになって何が満足すべきことなのか考えることが大切です。『相手が』ではなく『自分に』してもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。これはキリストの愛がなければできないことです」。この黄金律をしっかり握りしめて金森さんの新たな出発が始まった。
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