自分の十字架(マルコ8:31-9:1) 20250216
更新日:2月18日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年2月16日降誕節第8主日礼拝での説教要旨
です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
イザヤ書43節1-4節(旧1130頁)
マルコによる福音書8章 31-9章1節(新77頁)
(説教)
1.死と復活の予告
先週、ペトロが「あなたは、メシアΧριστόςです」(8:29b)と新約聖書の中で初めての信仰告白をしたことをお話ししました。そして8章30節に、「すると主イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」書かれています。
主イエスは、ペトロが「あなたはメシアです」と信仰告白したことを受け止めましたが、弟子たちが周囲にその証をするのは時期早尚で、主イエスの弟子としてさらに彼らを教育しなければならないと思われたようです。
そのため31節で、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」と書かれているのです。
この中で主イエスは、自分のことを「人の子」だと言っています。「人の子」とは、イザヤ書53章で預言されていた「苦難の僕」を指しています。すなわち、ご自身が世の人々の罪を担い、多くの苦しみを受け、指導者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっていると、ご自身の十字架の死と復活の予告をしたのです。
2.段階的に目が開かれる
何事についても、人間は段階的に目が開かれるものです。初めはぼんやり、それからはっきり見えてきたという、ベトサイダでいやされた盲人の目の段階的な回復過程がそうでした。それは、信仰者のまなざしが神から与えられたということなのです。すなわち、神の恵みのもとで新しい人生が始まると、人は段階的に自分の人生が違った輝きをもって見えて来るのです。
この何事も段階的に行われていくという意識で、これから主イエスが弟子たちに教えられていったことをご一緒に聞いていきたいと思います。
人の子として、主イエスが地上の働きの最終目標としていたのは十字架でした。
それが見え隠れし始めたこの時から、主イエスはご自分の死と復活について、「はっきりとお話になった」のです。
それを聞いたペトロは動揺しました。
32節には、ペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と書かれています。
主客転倒もいいところです。弟子のペトロは、そんな恥ずかしいことがあってはなりません、あなたは輝かしい救い主でなければなりません、と主イエスを叱るような口調で話したようです。これは、老いて行く親に対して、介護の世話を一生懸命しようとするときに、つい厳しい口調が出てしまう親孝行な人でもありがちなことではないでしょうか。主イエスを愛して信じているからこそ出てきたペトロの発言だと思います。
それに対して33節で、主イエスが、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と、信仰告白をしたばかりのペトロを厳しい言葉で叱りました。
主イエスは、愛弟子のペトロの信仰が、いつの間にか、自己の考えや自分の利益に執着させようとするサタンの誘いに巻き込まれかねないことに厳しい警鐘を鳴らしているのです。
この「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言う言葉は、主のため教会のためにと考えていても、知らず知らずに外からの見た目や周囲の評判などに気がまわってしまって、「神のことを思わず、自分のことを思っている」ことになりかねないことへの、主イエスからの教師として歩み始めた私への警鐘だと受け止めています。
3.主イエスの教え
34節から、主イエスが自分の十字架を真正面から受け止めて歩み出すときの、愛弟子たちへの愛と憐れみに溢れる教えが続きます。その中から7つの点についてお話しします。ご一緒に、主イエスの言葉に耳を傾けて参りましょう。
(1)自由な決断
主イエスは最初に、「わたしの後に従いたい者は」と呼びかけています。これによって、主に従うことが私たち一人一人の自由な決断によるということを示してくださっています。
そのうえで弟子達と群衆に向かって「わたしに従いなさい」と招かれます。
(2)自我の放棄
第二点目は、まずは「自分を捨て」と呼びかけることによって、私たちが自分の思いや願望を捨てて神の御心を第一とすることを主イエスは求めています。
自分とは、自我を指していると考えてください。自分の我を捨て、幼な子のような無邪気になって、主イエスに従う気持ちにならなければ、神のことを知ることはできないのです。
イエスを見るものは、人には見ることが許されていない神を見ることになるのです。
(3)自分の十字架
第三点目は、「自分の十字架を背負う」という言葉です。私たちは、自分たち一人ひとりに与えられている苦しみ・苦難・試練・使命を背負うことが求められます。主イエスは、苦しいことだろうが、そこにこそ真の命があると言うのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ10章13節(新312頁)には、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えてくださいます。」と書かれています。この言葉を信じて、イエスの十字架と、後に続く弟子たちの十字架の上に教会が形成されて来たのです。そして今もここに教会が存続しているのです。
(4)命を用いる
第四点目は、「命」についてです。
35~37節で、「命」(原文ではψυχη)という言葉が4度も出てきます。
生物学的な生命という意味だけでなく「魂、精神、自己、考え方」という意味があります。
私たちは自分の命を自分の好きなようにできると皆さんはお考えでしょうか?
聖書の答えはノーです。
かつて日本では、大和魂という言葉が好んで用いられていました。例えば、自分の考えに固執するなと言われても、「いや、私の主義・主張に反することは出来ない。。わが道く。」と言っている人は、決して少なくありません。この世では、それが男らしいと言われて、もてはやされたりすることもあります。
そうした人生の先は、自分が全てとなり、神の存在すら認めず、イエス・キリストがその人に何かを啓示されたとしてもそれを聞くことができなくなるのです。それが、信仰の道を見出して信仰生活を歩み続ける難しさなのです。
また、人の命、人の才能は、用いれば大きなものに成長しますが、用いなければ消滅してしまいます。神が私たちに命を与えられたのは、それを用いるためであり、保存するためではないのです。私たちが他の人々のために自分の命を差し出すなら、私たちは常に命を得ていることになるのです。
仮の話ですが、もしすべての母親が、子供を生む危険をおかそうとしなくなったなら、どうなってしまうでしょうか。少子化問題どころの騒ぎではなくなります。
幸福への道、神への道は、リスクをとって危険をおかす人生、リスクを消費しながら進む人生なのです。こっそり何かを蓄えておく人生ではありません。
人生とは、疲労し、消耗し、最後まで命を与えつくすものなのです。私たちの魂はいつか燃え尽くすものですが、腐食してしまうよりましです。
(5)高価で貴い
第五点目は、37節の「代価」という言葉についてです。
本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書43章の1節、旧約聖書の1130頁です。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と書かれています。
「わたしはあなたを贖う」ということは、神が代価を払ってあなたを買い取るということです。
そして4節に「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」と、その理由が書かれています。
まさにそれが、主イエスの十字架の出来事のことです。神の独り子イエス・キリストの命が私たちの命の対価として支払われることを示しています。
それほどまでに、神は私たち人間を愛してくださっているのです。神の目に私たちが高価で貴いもので、神が私たちを愛しておられるのです。
私たちは主イエスの愛弟子とされ、その覚悟も問われます。しかし主イエスの命が代価として支払済みの赦された者として、弟子の歩みを続け、神の国の現れという確かな約束の希望に生きることができるのです。
(6)福音を恥としない
第六点目は、「恥」という言葉についてです。38節には、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」とあります。自分の信仰を隠すな、恥じるな、公にせよということです。
パウロは、ヘブライ人への手紙12章2節(新417頁)で、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」と語っています。
パウロは、恥をもいとわずと言って、主イエスが十字架の死を「恥」と捉えて、なお耐え忍んでいると言っているのです。
私たちは、十字架刑で死んだこの方こそが、救い主であると、恥をもいとわずに信じています。キリスト教会の信仰にとって最も大事なこととして、主イエスの十字架の死と三日目の復活を信じているのです。
主イエスの弟子として生きるにあたって、どうしても恥が付きまといます。主イエスと主イエスの言葉を恥じることとの闘いが生じます。
しかしその闘いにおいて、主イエスと主イエスの言葉を恥じない者は、主イエスもまたその者を恥じとしないと、主イエスは言われるのです。それが神の約束なのです。
(7)希望
最後は、希望の言葉です。「けっして死なない」という言葉です。
9章1節に、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」と書かれています。
私たちの歩む先は、小さな道だったり、謙遜な道や自分を捨てて歩むみすぼらしい道である可能性があります。
しかし、主が導いてくださる道を私たちが忠実に歩めるように、主イエスは必ず横にいてくださり励ましてくださいます。
だからこそ私たちは、神の独り子主イエスの命の代価がすでに自分のために支払われた者として、主イエスの後に続けて歩む弟子として、神の国が現れるという確かな約束の希望を持ち続けて生きることができるのです。けっして死なない、永遠の命が与えられるという、神の約束の言葉なのです。
主イエスと共に歩ませていただく恵みの中に生かされていることに、ここにおられる皆さんとご一緒に感謝の祈りを捧げたいと思います。

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