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福音とは何か(マルコ7:14-23) 20250112

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 1月12日
  • 読了時間: 7分

更新日:2 日前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年1月12日降誕節第3主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 



(聖書)

詩編94編3節~19節

マルコによる福音書  7章 14節~23節

 

1.神の掟と人間の(言い伝え)戒め

 

先週は、マルコによる福音書7章の「神の掟」を尊重しようとする思いから、人は昔の人の言い伝えに固執する過ちをしがちであることについて、9節の「あなたたたちは(手を洗うという)自分の言い伝えを大事にして、よくも(手を洗い清めるという)神の掟をないがしろにしたものである。」と、主イエスが言われたことをお話ししました。

その背景の説明に、主イエスはイザヤ書29章13節を引用しています。人は知らず知らずのうちに、自分は正しいと思い込んで、自分が神になって、神の掟ではなく人間の戒め(言い伝え)を教えとして覚え込んだからだと仰っているのです。

 

そして主イエスは、『父と母を敬え』という神の掟について語っておられました。ヘブライ語の「ささげもの」(קָרְבָּן:コルバン)と言う言葉まで用いて、ユダヤ人の身近な罪を指摘しています。

「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」と、たたみかけるように仰っているのです。

 

神の言葉は、私たちを常に新しく造り変えていきます。御言葉に聞き従うということは、自分たちのしてきたことを見直し、自分が変えられることを受け入れるということです。

しかし、私たちは変えていくことが苦手です。それまでしてきたことを変えることによって、自分が否定されるような気がして嫌なのです。自分たちがこれまで大事にしてきたことをそのまま守ろうと知らず知らずのうちにしてしまいます。ファリサイ派や律法学者たちに起こっていたのはそういうことです。

 

現代の教会においても、ファリサイ派や律法学者の人々と同じように、自分たちの言い伝え、慣習、しきたりにこだわり、言い伝えと違うことをする人を批判することがよくあります。

先人からの伝統を守ろうとすることは、否定されるべきではないし大切なことですが、自分たちの言い伝え、慣習、しきたりであれば、何でも無批判に迎合してしまう、というのでは無責任です。

伝統を尊重しながらも、常に新たに歩むべき正しい道を見出す努力をする必要があります。その時に、皆が神の国の到来に向けて前向きな気持ちで一致して、お互を批判的に高め合おうとすることは、とても大切なことです。

その時に、人間の言い伝えやしきたりに固執することによって他の人を批判していくということは、自分は「清い」、「義しい」と思っていることであることに気付かされるのです。

 

手を洗わずに食事をしている者が汚れていると批判することは、逆に言えば、手を洗っている自分たちは「清い」と思っているのです。ここには、「清い者」と「汚れた者」という区別を設けて、人を「清い者は、義しい者」、「汚れた者は、悪い者」という図式が出来上がってしまうのです。そして、言い伝え、しきたりに従っている自分は清い者、義しい者であり、それに従わない人たちは汚れた者であり、この集団に相応しくない者として批判してしまうのです。それが人間の性であり、主イエスはそのことを批判しているのです。

 

2.人を汚すもの

 

今日の聖書箇所に入りましょう。続く15節で主イエスは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と仰いました。16節が底本に欠落していて、十字の記号があります。その説明として、後の方98頁の下の段に、注記として「異本による訳文」、「聞く耳のある者は聞きなさい」と書かれています。「聞きなさい」というのは、「理解しなさい」とも訳せる現在形命令形で、主イエスが何度も繰り返し叫んだ言葉です。主イエスは弟子たちに、何度も聞きなさい。理解しなさいと強く仰っていたということです。

 

そして弟子たちが17節で、主イエスにそのたとえの意味を尋ねます。

18、19節で、主イエスは、「外から人の体に入るものが人を汚すことはない」、「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない・・・それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」と、食べ物をたとえとした明快な説明をしています。

清いと言われているものも、汚れていると言われているものも、食べ物のせいで人が汚れるようなことはない、すべての食べ物は腹の中に入って清められる。だから、人の本当の汚れは外から入って来るのではないと、主イエスは仰っているのです。

 

それでは、人の汚れはどこから来るというのでしょうか。20節以下で主イエスは、「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と人間の12の悪徳を例示しています。確かに、これらの悪い思いと行いは、外から入って来るものではなく、人間のお腹ではなく心の中から生まれて来るものです。主イエスは23節で、「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と仰いました。

 

3.福音とは何か

 

ファリサイ派や律法学者たちは、他の汚れた人から自分の身を守るようにしていました。

それに対して主イエスは、洗って落とせるような外側のものは問題ではなく、言ってみればあなたがたの心そのものが汚れの源なのだ、と仰ったのです。

 

人を「いい者と悪者」に区別して、一生懸命自分を清めて、汚れたこと、悪いことから遠ざかり、自分はいい者として悪者を批判しようとするファリサイ派の人々は、自分はもともと清い者であり、汚れは外から、入って来るものだ、と思い込んでいるのです。

それに対して、悪い思いを捨て、心を入れ替えて清い思いで生きようと決心するとしても、そのように決心する私たちの心そのものが汚れの源なのだ、と主イエスは言っておられるのです。

 

と言うことは、ここで主イエスは、「手を洗うよりも心を洗い清めなさい」と言っているのではないということです。

確かに、私たちが洗い清めることができるのはせいぜい体の外側だけです。心の中を自分で清めることはできません。

私たちは、外の世界から自分を守ろうとすることよりも、内的な生活を豊かに育むことにエネルギーを注ぐべきだということでしょう。

それは聖霊の力に明け渡すことから始まり、聖霊こそが私たちの内側を守ってくださるのです。

 

主イエスが伝道開始された時、マルコによる福音書1章15節で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と仰っていました。「悔い改めて福音を信じなさい」という意味は、自分の力で自分の心を洗い清めようとするのをやめて、キリストの十字架による罪の赦しという福音、善い知らせ、救いの知らせを信じ受け入れなさい、神様の恵みのご支配の下に自分の身を置いて生きなさい、ということです。私たちの、汚れからの、罪からの解放は、主イエス・キリストによって、外から近づき、与えられるのです。

 

そのために神の独り子主イエスは、私たちと同じ人間としてこの世に来られ、私たちと同じように生きて下さいました。

それは、私たち人間の心を支配している罪、汚れを、主イエスがご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さることによって贖ってくださるためでした。

 

主イエス・キリストの十字架の死は、本来死ななければならない私たちの身代わりとなってくださったものなのです。まったく罪汚れのない主イエスが私たちの身代わりになってくださったことによって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去って清めて下さったのです。それが福音であり、「喜ばしい良い知らせ」という意味なのです。

 

そして主イエスは、罪ある私たちがキリストに結ばれて救われ、新しい信仰の生活に入ることが赦される恵みの印として、洗礼を定めて下さいました。そしてさらに、その神様からいただいた恵みを自らの身体をもって味わいながら生きるために、この後与る聖餐を備えて下さったのです。

 

神があなたの人生に現れてくださったその福音の原点を大切にすること、そしてあなたが人の優しさに支えられたその原点を大切にすることこそが、私たちキリスト者の交わりを深めるエネルギーになります。そして普通とは違った形で、神を愛し、人を愛する、それこそが聖なるもの、清いものにされるという意味なのです。

 

このようにして主イエスは、信仰に生きる私たちに、聖、清さの大切さを語り、昔の人の言い伝えによる分離ではなく、キリストに結ばれた交わりに加わることを求めておられるのです。



 
 
 

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