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神の掟と人の言い伝え(マルコ7:1−13) 20250105

執筆者の写真: 金森一雄金森一雄

更新日:1月14日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年1月5日(日)降誕節第2主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 



(聖書)

イザヤ書 29章9節~24節(旧1105頁)

マルコによる福音書7章 1節~13節(新74頁)

 

1.洗うことと清めること

 

2025年の新年になって私たちが読み進める聖書箇所は、マルコによる福音書7章からです。マルコによる福音書7章1節には、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者がエルサレムから来て、イエスのもとに集まった」と書かれています。どうやら、五千人の給食の出来事などイエスのことが広く知れ渡ったので、ファリサイ派の人々が、ガリラヤ地方にいたイエスの周辺調査を始めていたようです。

 

そうした状況の中で、3、4節でファリサイ派の人々と主イエスとの間で、何が問題になっているのかについて、マルコは次のような解説を加えています。

「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず(3節)、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない(4節)。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」というのです。ギリシャ語の原典を忠実に調べてみますと、3節では手を「洗う」、4節では身を「清める」と正確に翻訳されていますが、5節の食器などを「洗う」という箇所は、4節と同じ「清める」と翻訳できる言葉が用いられています。

すなわち、3節の言葉は、よごれた手を洗うという意味で、羊飼いたちの仕事や私たちの日常生活を思い起こしてくださればよいと思いますが、4節、5節ではバプテスマ(洗礼)を語源とする言葉が用いられていますので、清めるという意味が強い言葉なのです。その旨、御自分の聖書に補記されると良いと思います。

 

 ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人が、何故そこまで手を清めることにこだわっていたのかについては、旧約聖書144ページ左下の出エジプト記30章17節で、「手足を清める」と小見出しが付けられている聖書箇所で、主なる神がモーセに仰せになったことが書かれています。

18節には、手足を洗い清めるための水を入れた洗盤に関する記事があります。そして21節には、イスラエルの人々が手足を清めなければならない理由について、「死を招くことのないためである。」「これは彼らにとっても、子孫にとっても、代々にわたって守るべき普遍の定めである」と書かれていますから、確かに大変重要な定めであると受取る必要があります。

このために、当時のファリサイ派の人々は、「俗」とか「汚れ」の意味を細かく規定して、「清め」の手続きを明確にしていました。

その背景には、自分たちユダヤ人は神に選ばれた選民であり、自分は清い、そして自分は清さを保てると考えていたことがあります。

自分は清いからこそ、外からの汚れによって自分の清さを損なわないようにしている、と考えているのです。

 

ですから、自分たちのつくった口伝律法の規定に従っていれば、神の教えに反することにはならない、という安心感を自分たちに与えていたのです。ファリサイ派の人々の自分は選民であり、すでに清いと考え、手洗いの規定は清さを保つためだと考えていることに、彼らの虚栄心の強さとうぬぼれが現れているのです。

彼らのそうした選民意識にこそ、問題があります。「清さ」とか「聖」というものは、神に属するものです。この世で聖なるものは、神だけです。だからこそ神は、人々に「死を招くことのないため」にと、「(手足を)洗い清める」ことを求めておられてことを知らなければなりません。

 

問題は、ファリサイ派の人々が、私たちや羊飼いたちのように、手を汚す仕事をする人を裁きかねない、愛の欠如、偏見に陥ることにあるのです。

5節の言葉が、端的にそのことを表わしています。ファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエスの教えや弟子たちに、なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まず、「(洗っていない)汚れた手で食事をするのですか」と、よごれている手で昔の人の言い伝えに従わないことを軽蔑した口調で語っているからです。

 

ここでは、清さを問うているのではないのです。手を洗っていないことでファリサイ派の人々が大切にしていた「昔の人たちの言い伝え」を否定していることが問題だというのです。主イエスは伝統的な聖書解釈を真っ向から否定する異端の教師だといって、激しい敵意を込めた告発をしているのです。

 

2. 口先と心

 

今日の聖書箇所マルコによる福音書7章6、7節では、主イエスが預言者イザヤ書29章13節の『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』という言葉を引用しています。

預言者イザヤは、常に妥協することなく、厳しく、鋭く、神の言葉を語った人です。

イザヤの時代の人々は、それなりに礼拝儀式を守っていました。経済的な犠牲をともなったいけにえもささげていました。エルサレム神殿を誇りに思い、神殿礼拝を守っていました。

そのような中で、イザヤは、人々の信仰生活の場であるエルサレム神殿が破壊され、異教徒の王によって再建されるという預言を語っていました。形式的な手洗いではなく、真の清めを大切にする心を求めたのです。

ですから、ファリサイ派の昔からの言伝えによる手洗いを軽視している主イエスの弟子たちの姿を見て、弟子たちは清めを無視したわけではないのに神を冒涜しているように思えたのです。

 

皆さんの身近な問題にたとえてお話ししてみましょう。洗礼は、罪との決別を意味し、我が身を清めることです。温泉に入って汚れを落とすのとは全く異なります。洗礼は、自分の罪を贖うために主イエスが十字架にかかられたことを覚えて与るものです。ですから、洗礼は一度きりのものです。また聖餐式では、自分が主イエスの十字架の死による代償として洗礼によって清められたことを都度思い起こして、主イエスのくださった惠みに感謝して聖餐に与るのです。

 

そのように考えれば、主イエスが8節で、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と、そして9節では「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」とまで手厳しくファリサイ派の人々に仰っていることが理解できると思います。その言葉は、私たちにも向けられている言葉でもあるのです。

 

3.父と母を敬うことと神を愛すること

 

続いて10節以降で、主イエスは、出エジプト記20章12節の、神がモーセに告げられた十戒の「父と母を敬え」と、出エジプト記21章17節の「自分のあるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」という言葉を取り上げています。

11、12節では、「もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と考えていることを、さらに13節では、「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」「また、これと同じようなことをたくさん行っている」とまで主イエスは言われて、パリサイ派の人々を咎めているのです。

 

身近な例で申しあげれば、皆さんが父母を敬う証しとして一緒にいなければならないという時に、「私は神さまに仕える務めがありますから、お父さん、お母さん、私は何もしません、一緒にいることができません」などと言うことは、何らかの理由をつけて「人間の言い伝え」を理由に、「神の掟」から自分を免除させようとするものだというのです。

 

私たちにもそのような誘惑がつきものです。私たちも人間ですから、周りの人たちから気に入られること、嫌われないこと、魅力的であること、そのようなことを求めてしまうことがあります。学校の先生なども、生徒から好かれる教師でありたいと思います。会社でも上司は部下に好かれたいと思います。家庭でも、親は子から好かれたいと思うし、子も親からよい子と見なされたいと思う。これが人間の性というものです。牧師もそのただ中にいます。みんなから好かれたい、だから愛想よくしなければならない、厳しい言葉ではなく人の気を惹くような言葉を語りたい、という誘惑に見舞われます。

 

そのために、何とか体裁を整えよう、形を整えようと思うものです。体裁を整えれば、人から良い評価を受けることができるように思えるからです。しかし本当に大事なことを大事にする心が失われる恐れがあるのです。


主イエスが指摘しておられるのはこのことです。私たちの生活の中で、神の言葉を真実に根差す生活をして欲しい、本当に意味あるものとして欲しい、その思いの中には、神の掟と人の言い伝えの妥協は一切ない、という主イエスの厳しさの中にこそ主イエスが自分の身を私たちの罪のために、いや私の罪を贖うために十字架に捧げてくださった愛を見出すのです。

 

本日の詩編交読の最後で、詩編51編18、19節に、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」と書かれていました。朝一番に全員で朗読した言葉です。

 

御言葉を聴いて、悔い改めることができるのです。厳しさの中にあっても、愛の中で悔い改めることができます。神は悔い改める私たちを決して侮られることはありません。

その確信に生き、この年を始めることができますように、その確信に支えられて、今年も御言葉を聴き続けることができますように、と祈ります。







 
 
 

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