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人間をとる漁師(マルコ1:14-20)20240512

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 2024年5月12日
  • 読了時間: 11分

更新日:2024年9月27日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年5月12日復活節第7主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 


(聖書箇所)

旧約聖書:エレミヤ1章4~8節、新共同訳聖書(旧1172頁)

新約聖書:マルコによる福音書1章14-20節、新共同訳聖書(新61、62頁)


(説教)

1.主イエスの伝道開始

イエスがガリラヤで伝道を始めるときに語られた言葉は、「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。

「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスの言葉で、伝道が始まったのです。

14節には、時が満ちた時とは、この世界の現実において、どのような状況だったかを記しています。それは、「ヨハネが捕えられた後」という一言です。洗礼者ヨハネが、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕えられていたのです。

ヨハネはなぜ捕えられたのか、そのことはマルコによる福音書6章17節で語られています。

ヨハネはヘロデの怒りをかって捕えられ、そして獄中で首を切られてました(6:28)。

「ヨハネが捕えられた後」というと、主イエスはヨハネの逮捕を合図としてイエスが活動を始めたかのようにも感じられます。しかし、そうではありません。

「時は満ち」と言って伝道活動を始めたその時は、主イエスのために道を備える者として神様から遣わされ、主イエスに洗礼(バプテスマ)を授けたヨハネが、時の権力者ヘロデによって逮捕され、殺されてしまう、ということが起っていたのです。

神様の福音が宣べ伝えられていくのに、良い環境が整っていたとはいえません。

むしろ神の福音に敵対し、妨害しようとする力が猛威を振るっている時だったと言えます。

私たち人間の頭で判断するとしたら、「時は満ち」とは決して言えない状況でした。

 続く「イエスはガリラヤへ行き」と書かれていることも実は大変なことです。

9節に「イエスはガリラヤのナザレから来て」とありました。主イエスは、ご自分が成長された地、ガリラヤから来て、ヨハネのもとで洗礼(バプテスマ)を受けました。ですから、

14節で、洗礼(バプテスマ)を受けてガリラヤに戻ったということは合点がいきます。

しかしそのガリラヤは、ヨハネを捕えたヘロデが支配していた地域です。ヨハネが逮捕された後、主イエスはわざわざそのヘロデの支配下にあるガリラヤに行って、そこで活動を開始なさったことをマルコは示唆しているのです。「時は満ち」という言葉は、私たち人間の感覚では、「今がチャンスだ、潮時だ、時の利がある」と判断する状況とは全く違うことがここに示されていることになります。

神様の時が満ちたのです。神様の時が満ちたのですから、人間の目に見える周囲の情勢などは関係ないのです。あらゆる妨害や敵対するものを乗り越えて、神様のみ業(わざ)が実現していくのです。

15節の「神の国は近づいた」ということは、神の国は遠い、はるかかなたにあるのではなくて、もう目の前に来ているということです。神様を王とする、神様のご支配が、既にすぐ近くに来ており、あなたに及ぼうとしているのです。それを前にしてあなたはどうするのか、神様のご支配を信じて受け入れそれに服するのか、それとも神様のご支配を拒み自分が王であり続けようするのか、決断しなければならないのです。態度保留はもうできないのです。「神の国は近づいた」という宣言は、主イエスが私たちにその決断を求めているのです。


 次に、15節で主イエスが命じた「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉の意味について確認しておきたいと思います。

 (1)「悔い改め」とは?もう分かっているよ、と皆さんは言われるでしょう。確かに、自分の罪に気が付いて後悔することです。しかし、真の悔改めとは、もう一歩先に進みます。

罪そのものを憎むようになって、罪から自然に引き離されていくことまで含まれます。それは、個々の悪い思いや行いを反省して直すことというよりも、自分が王であることをやめ、神様こそが王であられることを受け入れることです。

(2)「福音」とは、よき音ずれ、良い知らせという意味です。ここでは、主イエスの宣教において、神の国、すなわち神の支配が近づいたことこそが福音だというのです。

私たちが罪を悔い改め、自分が王であろうとすることをやめて神様が王であることを受け入れることが、「福音を信じる」ことだと言い表されているのです。「福音を信じる」ことと、私たちが罪を悔い改めることとが、ここではイコールで結ばれているのです。

 

2.人をとる漁師

主イエスが伝道を始めるにあたっては、いきなり教えを語られたわけではありません。

いきなり癒しを行われたわけでもありません。いきなり人々の罪を背負って十字架上で血潮を流されたわけでもありません。主イエスは、何から始められたのでしょうか?

皆さんは、伝道のために最初にすべきこととして、何が必要だと思われますか。

漁師伝道であれば丈夫で大きな網が必要でしょうか。大きな舟や車、立派な会堂でしょうか。宣教資金なのでしょうか。それらはあった方が良いでしょうが、欠くことができないものとは言えません。絶対必要なものとは、何でしょうか。それは、人です。

だからこそ最初に、主イエスは、人間をとる漁師という使命を告げているのです。

 ユダヤ人の最大の歴史家ヨセフスは、当時は300隻くらいの漁船がガリラヤ湖水で操業していたことを記しています。福音書でも5千人の給食の物語で、2匹の魚と五つのパンが出てきます。当時パレスチナの一般人は、パンに添えて魚を副食物として食べていました。

ですから、ガリラヤ湖周辺には、多くの漁師が住んでいました。

マルコによる福音書1章16節の小見出しに「四人の漁師を弟子にする」と記され、主イエスが二人ずつ二組み、合計四人の漁師たちを弟子として伝道の使命に召しています。

主イエスの伝道は、主イエスがまず四人の漁師を弟子として、伝道の使命に召されることによって、始まっていったというのは自然の成り行きでした。


 16節では、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っていた、とあります。この記事から、皆さんが頭の中でその場の思い巡らすと、どのような情景が思い浮ばれますか。

このシモンとアンデレの召命については多くの絵が描かれています。舟の上で網を投げている様子が描かれているものもあります。ところがここの聖書箇所には、舟という言葉がありませんから、シモンとアンデレを舟に乗せるわけにはいきません。この二人は、膝までか、腰までか、あるいは胸までかは分かりませんが、湖に浸かって網を打っていると考えるのが自然です。

 19節を御覧ください。それに対して、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネに目を向けるとどうでしょう。「舟の中で網の手入れをして」と書かれています。ですから、この二人は、舟の上にいるのです。しかも20節には、イエスに呼ばれると、父親ゼベダイと共に雇い人たちも残してイエスの後について行った、と記されています。舟を持ち雇人がいるのです。とすると、ヤコブとヨハネの二人は、経済的に力のある家の漁師だったと思われます。

 主イエスは、舟を持たずに投網しているシモンとアンデレの二人の漁師と、舟や雇い人を持つ経済的な力のあるゼベダイの子ヤコブとヨハネ二人の漁師とを、同時に二組合計四人を召されています。主イエスにはどのような選考基準があるのか気になりなるところです。

召される人について、出身地や家族構成、資産の有無などは考慮していません。

履歴書などはありません。それでは、主イエスの選考方法とはどのようなものでしょう?

16節には、シモンとアンデレについて、その時の状況を「御覧になった」とあります。

19節にも、ヤコブとヨハネについて、その時の状況を「御覧になると」と記されています。

主イエスは、彼らをじっと見つめているのです。ちらっと見るのではなく、それぞれの漁師に、同じ眼差しを注がれています。それが主イエスの選びの規準です。

このようにして主イエスが人を選ばれてお呼びになりました、そして、主イエスをリーダーとするグループが出来あがっていきます。それが主イエスのご「一行」です(21節)。

主イエスが人を選ばれ、主イエスのご「一行」になり、そして主イエスのご「一行」が赴くところで、汚れた霊が追い出され、病の癒しがなされていく。主イエスのご「一行」が赴くところに、神の国が実現していくのです。

 

3.すぐに(εὐθὺς)

マルコによる福音書の特色として「すぐに」(εὐθὺς)という言葉を何度も繰り返えして用いることがあげられます。今日の聖書箇所でも、18節で「二人はすぐに(εὐθὺς)網を捨てて従った。」、20節でも「すぐに(εὐθὺς)彼らをお呼びになった。」と、出てきます。

マルコの臨場感あふれる、出来事を次々に記述する独特の記述方法です。

ところで、ペトロたちは本当にすぐに主イエスに従ったのでしょうか。

ルカによる福音書では、少し違った角度で記しています。比較してみました。

主イエスとシモンの出会いとなる記事が、ルカによる福音書4章38節にあります。

シモンの姑が高い熱に苦しんでいたので、人々が主イエスに頼んで姑の家を訪ねてもらったのです。主イエスは、熱を叱りつけてシモンの姑を癒してくださいました。

ルカは、このときから主イエスとシモン・ペトロの接点ができているように記しています。

そして5章で、シモンを弟子にする場面では、ルカはこのように書いています。

湖の岸にいた主イエスのところに大勢の群衆が押し寄せました(ルカ5:1)。主イエスは、押しつぶされてはいけないと思ったのでしょうか、シモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すように頼み、主イエスは舟の上から群衆に教え始めています(ルカ5:3)。

そして話が終わると、主イエスはシモンに漁をするように言われました(ルカ5:4)。

 シモンは、今朝は何も獲れなかったし、こんな時間に漁をしても無駄だと分かっていましたが、イエスの御言葉だからと、網を降ろしてみましょうと答えました(ルカ5:5)。

漁師たちがイエスの言葉通りにすると網が破れそうになるほどの魚が獲れました(ルカ5:6)。魚でいっぱいになったので舟が沈みそうになりました(ルカ5:7)。

これを見たシモン・ペトロが、主イエスの足もとにひれ伏した(ルカ5:8)とあります。

ルカはここで、シモンがひれ伏したときの出来事を書くにあたって、シモン・ペトロという言い方を唐突に記しています。ルカはこうしてシモンが後のペトロであると示しています。

 それからシモンに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われるのです(ルカ5:10)。

「あなたは~になる」と主イエスに言われたのですから、もう選択の余地はありません。

ルカは続けて「彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)、シモンとその場にいた漁師たち4人が、舟を陸に引き上げて、すべてを捨てて主イエスの後についていった、と記しているのです。


 マルコによる福音書の本日朗読していただいた箇所では、シモンの姑の高熱を主イエスに癒してもらったことや、主イエスの言葉に従ったときに網が破れそうになるほどの大漁がもたらされた、そして主イエスの言葉の力に畏れをなした、といった記述はありません。

マルコは、後の29節で姑の癒しの事は記しているので知っていましたが、ここではそのような人間側の状況は一切無視した記述をしています。マルコは、「すぐに」という短い言葉を用いて、連続した出来事として捉え、神様の目線でその時の様子を浮かび上がらせているのです。

 

4.エレミヤの召命

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、エレミヤ書の冒頭の箇所です。

エレミヤが預言者としての使命に神から召された時の物語です。

エレミヤ書1章5節で「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」と、神様から告げられています。これに対してエレミヤは、6節で、語る言葉を知らない、若者にすぎない、といってお断りしています。エレミヤは若さを理由に固辞しましたが、神様はエレミヤを励まし、預言職を全うさせようとしました。そのときエレミヤは、若者でした。

しかし、神様が選ばれたわけですから、なす術がありません。

 もし福音書記者のマルコが、このエレミヤの物語を書いたとすれば、「エレミヤはすぐに従った」と書くのでしょう。神様の出来事の中では、一切の人間側の事情や判断は取るに足らないものなのです。神様の選びの前で、人はなす術がないのです。

 ペトロたちは神様に召されて伝道者になりました。どうしてあなたは伝道者になったのかと周囲から何度も問われたことでしょう。そしてペトロたちは、今日の聖書箇所に書かれている自分たちの召命の出来事を何度も繰り返し答えたのです。 それが証しです。

これは何も伝道者だけの話ではなくて、キリスト者ならば誰にとっても当てはまる話です。なぜあなたは洗礼を受けてキリスト者になったのですか、そう問われたら皆さんは、どう答えることができるでしょうか。

私たちの洗礼も同じです。自分の準備が整ったから、自分が変わったから、ようやく洗礼に与かるのではありません。準備が整わないまま、主イエスの弟子になることなのです。

クリスチャンの道は、自分が選んだのではありません。主イエスに招かれたのです。呼ばれたのです。キリストの招きがあったのです。私たちは洗礼を受けることによって、以前と違う自分になっていくのです。まさにクリスチャンの人生とは、工事現場のようなものです。

完成するまでは、未完成な部分があちこちに残っています。

私たち誰もが、信仰の原点として、今日のエレミヤと同じような自分の物語、証しを持っています。それは私たちの人生を根本から変えてしまうほどの恵みに富んだ招きなのです。

  


 
 
 

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