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尾崎二郎牧師:幸いな人とは(マタイ13:10-17) 20250223

執筆者の写真: Kazuo Kanamori Kazuo Kanamori

更新日:2月24日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年2月23日降誕節第9主日礼拝での 尾崎二郎先生(別府不老町教会牧師)による説教要旨です。



(聖書)

申命記29章1-5節

マタイによる福音書13章10-17節

 

(説教)

 

あなたは、天の国で幸いであるのか、この地上で幸いであるのか、どちらを選びますか、、、

この問いは意地が悪いと言いますか、的外れな質問です。

聖書は、天の国で幸いであることと、この地上で幸いであることは、限りなく近づいて、遂には一つになる幸せであると、説いています。

或いは、この地上での幸いは、やがて天の国での幸いに飲み込まれるとも言えるでしょう。

主の祈りは「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りますが、それは天の幸いが、祈りによって、この地にも、やって来るという事です。

今日のマタイ福音書13章16節

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。

 

とあります。この御言葉は、将に、天の国で幸いであることを言い表しています。この時、イエス様は弟子たちの前に立ち、弟子たちと顔と顔とを見合わせていました。目と目を見合わせていました。人間の関係も親しくなればなるほど、愛し合えば愛し合うほど、目が合うようになるようです。イエス様と一人ひとりの弟子は、そういう、目と目で通じ合う、見つめ合う親しい関係にあったのです。つまり、この時代には、イエス様が実際にその足でこの地上を歩かれたので、弟子たちはこの様にイエス様と顔を見合わせることが出来たのでした。その時、天の国の幸いは、この地上にも下って来たのです。そしてこの弟子たちのようにイエス様と顔を見合わせることが出来る人は、幸いな人であります。

そのイエス様と顔を合わせる幸せの、その幸せ度というのは、はかり知ることが出来ません。今の私たちには想像も出来ない程の幸せです。なぜならば、神は、人の心に浮かびもしなかったことを、御自分を愛する者たちの為に用意されるからです。(1コリ2:7-9)

その大きな幸いのことを、ルターは「欣喜雀躍」と表現したそうです。欣喜雀躍というのは雀がぴょんぴょんと跳ね歩くように、体全体で大喜びするということです。

イエス様と顔を合わせて出会えるという事は、この様に、最高の幸せなのです。

 

それでは、この地上で幸いであるというのはどういうことなのでしょうか。今の時代は、福音書の時代のように、イエス様が2本の足でこの地上を歩いてはおられません。ですから、福音書時代の弟子たちのように、質問が有ったら、イエス様に歩み寄って、彼と顔を合わせて話し合うということは出来ません。それゆえイエス様は、今の時代の私たちの為に、この聖書を用意して、御言葉が読めるようにされたのです。

私たちがこの地上で幸いであるというのはどういうことなのでしょうか。その答えは、イエス様ご自身が答えておられます。有名なイエス様による山上の説教です。マタイ福音書5章3節から、聞いて参りましょう。新約聖書6頁

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

 

これは今日の聖書箇所にある「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」という御言葉と同じ語幹で記されています。聖書箇所は違いますけれども両者には共通性があります。つまり、イエス様ご自身も、天の国で幸いであることと、この地上で幸いであることが、一つとなるようにとの祈りを込めて、これらの御言葉を語っておられるのです。

先程、天の国で幸いであることは、雀がぴょんぴょんと跳ね歩くように、体全体で大喜び出来るような、最高の幸せであると申しました。

それで改めて、天の国での幸いと、この地上での幸いとを比較してみますと、両者にはやはり大きな違いがあることに気が付かされます。。。

イエス様の山上の説教は、将に今の私たちの、この地上での幸いの在り方を説くものであります。8つの幸いが語られます、初めの7つ迄は、納得しアーメンと言えますが、最後の「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」という御言葉はどうでしょうか。これにアーメンというのには、私たちは相当な勇気と覚悟がいるのではないでしょうか。或いは、これが本当に幸いなのか、と疑ってしまうかもしれません

しかし、イエス様は、はっきりと「幸いである」と言われ、しかも、それは天の国の幸いでもあると、言っておられるのです。

このことを理解しますと、私たちは将に、この地上にありましては、恐れおののきつつ、雀がぴょんぴょんと跳ね歩くように喜び躍っているのであります。(詩編2:11)

 

さて、イエス様は、今、この聖書によって、たとえを用いて私たちに話されています。イエス様のたとえ話は、聖書の中で42個数えられますが、たとえ話は分かり易いので、皆さんよくご存じのことでしょう。その中でも、放蕩息子の喩えというのは有名です。私たちは、この放蕩息子の喩えをイエス様から聞かされて、みんなで分かち合って、教会学校などでも教え、教わり、語り合っているのです。

イエス様は、今日のマタイ福音書の箇所で、喩えを用いて話す理由について語っておられます。

13章12節~です。

持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。

 

何やらイエス様は、私たちに厳しいことを言っておられるようです。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない人、というのは今の時代に生きる私たち一人ひとりのことではないでしょうか。何とも、イエス様の御言葉が心に突き刺さって参ります。

私たちは、イエス様のたとえ話を聞くとき、それが、この地上の御話である分、分かり易く聴くことが出来ます。しかし、聞き方によっては、かえって天の国から遠くなってしまうことがあります。

例えば、放蕩息子の喩えでは、その父親は、放蕩の限りを尽くした後に帰って来た息子を待ちわびていました。そして息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。そして肥えた子牛を連れて来て屠り、皆で食べてお祝いをしました。

この様な、憐み深い父親を、この地上で持てた人は幸いな人であります。しかし、少し考えればわかることですが、こんなに憐み深い父親、ここまで息子を愛せる父親というのは、この地上で、ごくまれにしか居ないでしょう。この地上では、むしろ憐み深く無い父親の方が多くて、父親の愛情に恵まれない子供たちも多いのです。

しかし、イエス様がたとえ話で話される理由や意図というのは、この地上の父親が愛情深いとか愛情深く無いとか、或いは愛情深くあれ、と言った教訓を深めることにはありません。イエス様が放蕩息子の喩えを私たちに話された理由は次のことです。すなわち、この地上で生きている人は、やがて、天の国で 憐み深い父なるお方と 顔を見合わすことが出来るのだ、という事を全ての人に知らせる為なのです。

ここのところを聞き違えてしまいますと、イエス様の喩えを聞けば聞くほど、私たちはかえって天の国から遠くされてしまうのです。イエス様の言われる通り、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」という事になってしまうのです。それは、自分の心と体が、天の国にある幸いのほうに向かわず、この地上にある幸いのほうに向かってしまうからです。

この地上にある幸いを、私たちが誤って深めてしまいますと、私たちは目も当てられない状況におちいってしまいます。聖書にもそんな悲惨な 偽りの幸せのことが記されています。

「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリ15:32)この地上では、聖書に記されているこのセリフと似たようなことを語る人々が沢山おられます。。。この私も、洗礼を受ける前は、間違いなくこんな風に口走ってしまう人間の一人でありました。「食べたり飲んだりして楽しもうではないか。どうせ いずれは死ぬ身なのだから」という訳です。しかし、キリストの十字架の死と復活を信じてからは、この様な思いをすることはなくなりました。

天の国での幸いと、この地上での幸いは、決して別のものではありません。両者はつながっていて、やがて一つとされるのです。今のこの地上で私たちは、おぼろげにイエス様の顔を見ていますが、天の国では、顔と顔とを合わせて見ることになります(1コリ13:12)。そのとき全ての恐れは消え去り、私たちは雀が跳ね歩くように喜び躍るのであります。その時にはすべてが明らかにされ、理解されるのです。

 

今、カトリック教会のフランシスコ教皇様が御病気で入院されています。私がこのことを知らされたのは、先週の木曜日に、修道院で開かれたテゼの会での事でした。修道女や集まった信徒の方々は、口々に、フランシスコ教皇様大丈夫でしょうかと、彼の病状を案じる言葉を口にして、心配されていました。私はその姿に感銘を受けました。人生において、一度会うか会わないかというくらい、遠くにいる人のことをここまで心配できるという事は、教皇様が、彼ら彼女らの内に居て、教皇様を愛しているという事です。

この様に、遠くにいる人たちを愛することが出来るように、イエス様は、地上に来て、弟子たちと顔と顔とを合わせて愛し合われました。

この様に私たち人間の近くに来られたイエス様は、今は、遠くに居られます。しかし、再び、私たちの近くに来られます。

イエス様は、私たちが互いに愛し合う者となるために、お互いの距離を限りなくゼロにして下さったのでした。

今日の礼拝では、別府不老町教会から川野是(ただし)長老と、尾崎二郎牧師が、この杵築教会へと遣わされ、皆さまとの距離が近くなりました。金森一雄先生は、今、別府不老町教会に近くなっています。

この地上において、今日のような小さな移動によっても、私たちは久しぶりに顔と顔とを見合わすことが出来る幸いな人とされます。この小さな幸いを支えているのは、天上に居られるイエス様です。最後の日にイエス様と顔と顔とを見合わせることが出来る、最上の幸いを待ち望みつつ、私たちは今日この時に、喜び躍って、その幸いを味わって参りましょう。



 
 
 

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