主イエスの変容(マルコ9:2-13) 20250302
更新日:5 日前
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年3月2日降誕節第10主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
出エジプト記24章 12節~18節(旧134頁)
マルコによる福音書9章2-13節(新78頁)
(説教)
1.ラファエロの「キリストの変容」
バチカン美術館に、イタリア人のラファエロという画家の代表作で「キリストの変容」と呼ばれる縦4m横3mの縦長の絵画があります。上下にマルコによる福音書9章の山の上と山の下での二つの場面が描かれて、大きな一枚の絵画として構成されたものです。
上部の絵は、マルコによる福音書9章3節のキリストが変容する場面です。山の上の光に満ちた空に、神の姿に変容した主イエスが白く光り輝いて浮かび上がり、その左右に預言者モーセとエリヤがいます。主イエスの足元のあたりに、目がくらんでいるような姿勢で倒れている三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが描かれています。
下部の絵は、マルコによる福音書9章14節の汚れた霊に取りつかれた子をいやす場面が描かれています。大げさな身振りで騒ぐ群集と聖書を開いたり山の上を指さしている弟子たちが、汚れた霊に取りつかれた少年と向かい合って四苦八苦している姿が描かれています。
弟子たちが、思うようにいかない、こんなはずじゃなかった、誰かが助けてくれないかと慌てふためいている様子が、私たちの現実の姿と重なります。
旧約聖書では、神からの啓示を受け取る場所は山でした。モーセは、シナイ山に登って神から十戒を授けられました。
マルコによる福音書8章31節で、イエスが弟子たちを教え始められたこの時に、山に登られたということですから、神からの大事な啓示を受ける意図があったと考えられます。
2.ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴って
今日の説教箇所は、8章29節でペトロが信仰告白をし主イエスがご自分の死と復活を予告した日から数えて、「六日の後」に起きた出来事です。ルカによる福音書9章29節には、「八日ほどたったとき」と書かれていますが、いずれも実質一週間後ということです。主イエスの新しい創造の業が始まったことを象徴している一週間ということになります。
そして、9章2a節には、主イエスが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて山に登られた、と書かれています。
これまでは、主イエスの恵みの御業には、それを見て証しする弟子たちの姿が一緒でした。ここで三人だけを伴われたと言うことは、何か特別重要なことがあったのでしょう。
先走った話をすることになりますが、この後、マルコ14章32節(新92頁)で、ゲッセマネの園での壮絶な祈りの時も、主イエスは、この三人の弟子だけを伴っています。主イエスは、重要な場面でペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを伴って行動しているのです。
本日聖書朗読していただいた、旧約聖書は、出エジプト記24章です。15節以下に、モーセが、従者としてヨシュアを連れてシナイ山に登って行ったことが書かれています。
すると16節には、「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」と書かれています。
この時は、従者はヨシュア一人だけですが、神の顕現はやはり山の上でのことでした。しかも七日目、一週間後、「主は雲の中からモーセに呼びかけられた」と書かれています。
マルコによる福音書9章2b節に戻りましょう。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」、3節では、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」と書かれています。聖書の中で「さらし職人」という言葉が登場するのはここだけです。福音書を書いたマルコは、その時の主イエスが白く光り輝いた様子をこのような言葉を用いて強調しているのです。
3. 主イエスとモーセとエリヤ
それから9章4節に、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」と、書かれています。
モーセは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活を抜け出して故郷に帰った時のリーダーです。旧約聖書の最初のモーセ五書(創・出・レビ・民・申)を書いた、「律法」の代表者です。
エリヤは、預言者の中で最も偉大な人物と言われている、「預言」の代表者です。
この場面では、旧約聖書の律法と預言を代表する、モーセとエリヤの二人が現れて、主イエスと三人で語り合っているのです。
このとき三人が話していたことについて、ルカによる福音書の9章31節には、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と、話の内容についてまで書いています。
この三人の会談では、旧約時代に「律法」と「預言」の言葉が与えられたが、人間は救われなかったことが総括されたでしょう。そしてこれから起こる主イエスの十字架刑という栄光の出来事について話し合われていたということなのです。
マルコによる福音書9章5節では、ペトロが口をはさんでいます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言っています。
そして6節には、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」と書かれています。
すると7節で、「雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」」と書かれています。
マルコによる福音書1章11節で、主イエスが洗礼を受けられたときと同じ様に、天からの声が聞こえてきたのですが、今回は主イエスに対して向けられたのではなく三人の弟子たちに向けられたものです。
「これに聞け」と、二人称複数形で書かれていますから、「あなたがたは彼に聞きなさい」というのが直訳です。三人の弟子たちに対して、しっかり主イエスの言葉を聴くようにという声が、天から響いてきたのです。
4. イエスだけが一緒におられた
8節には、モーセとエリヤは消えて、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」と書かれています。
ここで、主イエスが真っ白く光り輝いたことは、イエスが本物のイスラエルの救世主、メシアであることが示された、確かな証しの出来事であることが強調されているのです。
しかもモーセとエリヤが共に現れたということですから、イエスがそれほど偉大な方である何よりの証拠となる出来事です。
三人の会談を終えて、モーセもエリヤも消えていなくなりました。残されたのは主イエスだけです。モーセとエリヤが消え、これからは、主イエスお一人がすべてを担ってくださるということです。私たちの救いの完成に向けて、主イエスが必要なすべてのことをしてくださるのです。
9節に、「一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。」と書かれています。
またしても、主イエスから黙秘の指示が出されたのです。
しかし今回は、「人の子が死者の中から復活するまでは」と、イエスの十字架と復活の出来事が終わるまでが黙秘の期限ですよと、明確にされました。
それでも10節で、彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと弟子たち三人で互いに論じ合ったと書かれています。やはり弟子たちが、まだ目にしていない復活の出来事を理解することについて相当ハードルが高かったことが分かります。徐々に、主イエスの十字架が近づいて来ているということは、その時の弟子たちに分かるはずがありません。
11節で弟子たちは、主イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねています。弟子たちは、マラキ書3章23節の「主の大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と預言されていたことを思い出して、ここでエリヤのことを尋ねたのでしょう。
12節で主イエスは、確かにまずエリヤが来た、と過去形を用いて事実として答えています。
そして、「それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。」と、イザヤ書53章の「人の子」について、逆に弟子たちに質問をしています。
イザヤ書の「苦難の僕」こそ、イスラエルの罪を一身に引き受けることでイスラエルのために罪の赦しを成し遂げる方であり、その栄光の「人の子」とは、自分のことなのだと説明しようとしたのです。
それから主イエスは再び話題をエリヤに戻しています。13節です。「しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」と言われました。
バプテスマのヨハネが、ヘロデ・アンティパスによって殺害されたことについて、「人々は好きなようにあしらった」と言及されて、これから起こるご自身の十字架の出来事を暗示されたのです。
主イエスは、山の上でイエスの変貌とエリヤとモーセが出現したという確かな証拠をペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちに見せました。そして山を下りるとき、ご自分の受難を弟子たちに教えたのです。しかし、弟子たちは山で見た栄光のイエスと、イエスの語る苦難のメシアの受難と復活というギャップの大きさを埋められません。
弟子たちは、自分たちの望んでいたとおりの強いメシア像の理解から離れることができず、弟子たちの心の中で、主イエスの言葉を受け入れる心と、受け入れたくないという思いの葛藤が強まっていったのです。
確かに、神の御心とは、果てしもないほど高くて深くて大きく広いものです。そんなに簡単に分かるようなものではありません。まさに、主イエスを通してでなければ、知ることが出来ないものなのです。一方、私たち人間には、自分にとって好ましくないことには過剰反応して、恐怖を抱き、神の真理の啓示に対して耳をふさぎ、盲目になってしまうのです。
もし、私たちが聖書の言葉を聞いて、「ああこれは分かる」「これならできる」と思ったとしたならば、要注意です。本当かな、真実かな、と一旦立ち止まる必要があります。
神の御心は、そんなに簡単に分かるものではありません。神様の光が、私たちの内にある罪の暗闇を照らして、神様を信じることのできない自分の姿、神様に喜ばれないことを行ってしまう自分の姿、を明らかにします。そして同時に、御言葉は、それらの罪をすべて赦す恵みであることを伝えてくれるのです。神である主イエス・キリストが、私たちのすべての罪を背負うために、十字架にかかられ死んで下さいました。この恵みによって、私たちは赦されて神の光の中を生きる者となるのです。
そして、「無知な者」であった私たちにさえ、何が神の喜ばれる御心であるのかについて、少しずつ理解が与えられるようになっていくのです。これこそが、測り知れない神様の恵みであり、私たちがその恵みを切望するよう、主イエスは私たちを招き続けてくださっているのです。
私たち一人一人も神様から召されたものです。
御言葉を聞いて、慰めと励ましを受け、希望を持ちたいと願います。
一方、私たちは揺れ動く弱い心、自分の思いから離れられない、かたくなな心を持つ者です。主イエスは、そのような私たちをご存知で、いつも私たちを導き、支えてくださるのです。さらに、私たちが時には、自分の思い込みや勝手な判断で調子はずれなことをしてしまいますが、それでも神が軌道修正をしてくださるのです。
先週、私はコロナの陰性証明をいただくことができずに、外出自粛となりました。そのとき、別府不老町教会の尾崎二郎先生が、すべては主にあることだから、頭をかたくなにせず、すべてを働かせて益としてくださる主に共に祈りましょうと慰めてくださいました。
すべてが悪い方に向かっているように感じたとしても、「神はわたしを愛している。神は決して見捨てない。」ということを確信して受け入れようと努めました。自分の思った通りにならなくても、神様が準備して下さった道なら、それが一番いい道なのだからと神様に委ねました。
その結果、別府不老町教会の礼拝には、私は欠席させていただき、司式者の長老が私の説教原稿を代読してくださいました。
杵築教会には、予定通り別府不老町教会から、K長老と尾崎二郎牧師がお出でくださって主日礼拝が守られました。私は、杵築教会の3階席で礼拝を守らせていただきました。
それが主のご計画であり、主がすべてを引き受けてくださったことが分かりました。
そして私は、礼拝を終えてお帰りになる皆さんの後ろ姿を見守りながら、すべてを統べ収めてくださっておられる主に、感謝のお祈りをさせていただきました。

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