一筋の心を(マルコ9:14-29) 20250309
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年3月9日受難節第1主日礼拝の説教要旨です。
杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
詩篇86編5-13節(旧約923頁)
マルコによる福音書9章14-29節(新約78頁)
1.山の下の状況
今日の私たちに与えられた聖書箇所は、新約聖書78頁のマルコによる福音書9章14節からです。「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」という小見出しが付けられています。その前の9章2節には、「イエスの姿が変わる」と言う小見出しが付けられていて、二つの物語がワンセットになっているのです。
ところでイタリア人のラファエロという画家の代表作で「キリストの変容」と呼ばれる縦4m横3mもの大きな縦長の絵画が、バチカン美術館に保存されています。
この絵は、縦の長さを半分の2mにした横長の絵を上下に並べることによって、マルコによる福音書9章2節からの山の上の出来事を上に、今日与えられている14節からの山の下での出来事を下に描いて、山の上と下で同時に進行している様子を描いているものです。
山の上には、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子がまばゆい光で目つぶしをくらっているかのように描かれ、山の下では、残りの9人の弟子が聖書を開いたり天を仰いでいるなどいろいろな仕草で描かれていて、ラファエロの聖書の理解の感性にふれることが出来て、興奮冷めやらぬ気持ちになります。
今日は、14節以下の山の下の状況について説教させていただきます。
主イエスとペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが下山すると、山の下に残っていた残りの9人の弟子たちが、大勢の群衆に取り囲まれている状況にありました。ここで12人の弟子たちと主イエスがまた一同に集ったことになります。
ここからは、皆さん一人一人が聖書の言葉を受け取る感性で、ラファエロの絵に続く、12人の弟子が一同に揃った3枚目の絵を思い描いていただくことになります。
16節で、主イエスは、「何を議論しているのか」と言われています。
17、18節で、群衆の中のある者が「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。」「霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」と答えています。
この場面を想像してみてください。主イエスの弟子たちはどんな様子でしょうか。
汚れた霊を追い出すことができなかった事実の前では、弟子たちが何を言っても、その言葉には何の力もありません。はっきり言えば、議論にはならなかったでしょう。現実に苦しんでいる人を救うことができないではないか、と言われて返す言葉がなかったでしょう。
弟子たちは、私たちには出来ないから、主イエスが帰って来られるまで待って下さい、とは言わずに、自分たちで汚れた霊を追い出そうと必死になっていたのです。全く祈らずにすることはなかったでしょうが、自分たちのなすべきことを聖書の言葉から探したりもしたのでしょう。
18節の後半で、「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」という、群衆の中からの声を聞くと、19節で、主イエスが「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」と答えられています。
19節で、主イエスが、「信仰のない時代」と言ったのは、信仰、忠実を表すギリシャ語の「πιστος(ピストス)がない時代」だと嘆いたということです。
当時の社会は、自分の思いや願いに神を利用しようとする祈りで満ち満ちていました。まさに自分の実現ばかりに忠実で神に対して忠実とは言えない時代でした。
主イエスはその言葉に続いて、「共にいられようか」「我慢しなればならないのか」と、この世の人々を一見厳しく切り捨てるように感じる言葉を語っています。
19節の主イエスの言葉は、主イエスの単なる不機嫌さを表現するものと捉えてしまってはいけません。
主イエスがおっしゃった、共にいられない、我慢しなければならない、という言葉を語られた背景には、主イエスが、これから御自分が向かう十字架を真正面から捉えておられたということがあるからです。
ご自分の身を十字架に投げ出すという、愛と憐みに富んだ、しかも忍耐強い主イエスの心があるからこそ、そのように表現されているのです。
19節の最後で、主イエスは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われています。主イエスは、我慢ならないと言って、突き放すのではなく、忍耐を持って責任を負ってくださる方で、親鳥が自分の羽の下に雛たちを集めるかのような心をもって、「わたしのところに連れて来なさい」と仰ってくださる方なのです。
2.自分の信仰が問われる
21節で主イエスは「このようになったのは、いつごろからか」と聞かれています。この父親は「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と、自分と自分の息子の救いを求めています。
この息子は、幼い時から悪霊の攻撃を受けて来ました。息子が泡を吹いたり、がたがた震えて転げ回ったり、火の中、水の中に飛び込んでいくのを見て、父親は必死で押さえつけながら、死に物狂いで祈り続けたと思います。
もうこの時までに、父親の心は、いくつにも張り裂けていたのです。
そしてここで、主イエスに対して、「おできになるなら」という主イエスの着目した問題発言が飛び出したのです。
私たちは、何かがあれば、必死になって祈ります。ところが祈りながら、祈れば祈るほど、自分の中には不信仰しかないとか、神に対する忠実さを失いかけて、実は神を信じていないと思わされるまでに至ったことが、少なからずある方が多いのではないでしょうか。
それはサタンの誘いだなどと、人ごとのような発言は控えるべきでしょう。
祈っているけれど、その祈りはずっとかなえられていない、このような信仰のみじめさを、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。
主イエスは人の子として、私たちと同じ苦しみに遭われています。
マルコによる福音書15章34節に、主イエスの十字架上の言葉としてよく知られている、アラム語の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉があります。
日本語では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と翻訳されています。十字架上で主イエスが大声で叫ばれた言葉なのです。
言うまでもないことですが、主イエスのこの叫びの中に、神に対する忠実さを欠くような不信仰・不忠実と言った批判が忍び込む隙間はありません。主イエスは、神を100パーセント信じて、この祈りを叫ばれて十字架で死んだのです。
十字架の死を自ら経験された主イエスは、だからこそ、神なんか信じられない、と思う不忠実な信仰心に陥りそうになる私たちの先に、立っていてくださるのです。
私たちは、主イエスに右の手を取っていただいて起き上がって、このお方の前に立つのです。不信仰だからこそ助けていただかなければならないのです。そして主イエスの前に立たせていただくことが赦されているのです。
それが私たちの信仰です。それが忠実だということなのです。
23節で主イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と、厳しくこの父親に信仰の忠実さを問い正しておられます。
この父親の言葉は、「もしよろしければ…してください」と、一見謙遜している言葉のように聞こえますが、謙遜というよりも少なからず疑いや不信仰があること、それが不忠実となることを主イエスはご存知で、そのことを言われたのです。
するとこの父親は、24節で即座に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫んでいます。ここでの父親の助けを求める言葉が、「わたしどもを」助けてくださいから、「わたしを」助けてくださいに変わっていることに、気がつかれたでしょうか。
この父親は、すでに十分すぎるほどに苦しんだのです。苦しみ抜いた結果、何も信じることができなくなったのです。だからこそ、助けてほしいと願ったのです。
そしてこのとき、主イエスの前に進み出て、信じます。私を助けてください、信じることができるようにと、この父親は、主イエスの前で悔い改めたのです。
この父親は、主イエスの前に立ったとき、自分の信仰が問われたことが分かったのです。
24節のこの父親の「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という言葉に、この父親の悔い改めた「一筋の心」が明確に示めされています。これ以上、神に依り頼んだ信仰の言葉はないと思います。
あきらめてはいけません。
わたしたちが神に心を開いている限り、神にゆるせない罪などないのです。
私たちは、自ら、こんな罪がゆるされるはずがない、という思い込みをしてしまうのです。神のゆるしの力を信じましょう。神にゆるせない罪などないのです。
教会では、ずっとこの出来事を慰めと励ましのメッセージとして語っています。
きっとこれまでに全世界の無数の人たちが、この父親の叫びに、自分の心を重ね合わせることが出来たと思います。そして、主イエスは今日もこの礼拝の場で私たちに対して、この父親の叫びを届けてくださっているのです。
3.一筋の心を
本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、旧923頁の詩編第86編です。
7節には、「苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。」と神への信頼に生きる祈りの言葉が書かれています。
そして11節では、「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」と祈っています。
私たちの心はとても裂けやすい繊細なものです。
「できれば、信じたい」と私たちは思うのですが、でも、同時に駄目かな、と思ってしまいます。ところが、ここでダビデは、そんな揺れ動く心ではなく、「一筋の心をわたしにお与えください。」と祈っているのです。
この聖書箇所から、今日の説教題を「一筋の心を」とさせていただきました。
先ほど納骨式をさせていただいた故堀澄子さんは、主のご用のために全生涯を差し出された方でした。昨年11月6日の葬儀が終わった後にも、多くの方が弔問に来られて、故人の死を悼む心を聞かせていただきました。
堀澄子さんを偲ぶ、皆さんの共通した言葉が、故人の生涯ぶれることのなかった「一筋の心」を称えるものでした。
故堀澄子さんの祈りは、「まことに弱く、何の力もない自分ですが、み心ならば、私を神様のこの大きな恵みのみ業のために用いて下さい」というものでした。
この澄子さんの祈りを主は良しとしてくださり、主のご用に大いに用いてくださいました。
ここに集う残された杵築教会の私たちも、「一筋の心をわたしにもお与えください。」と、祈り続ける者でありたいと願います。
くじけても、傷ついても、苦しんでも、それでもなお御心を信じて祈り求め続ける心を第一にして生きる者として導いてくださいと祈ります。
私たちはキリストの十字架をそのまま真似ることはできませんが、キリストの十字架こそが私たちの心のしるしとして、主イエスが与えてくださる「一筋の心を」と祈らせていただくのです。
今、ここに集った者が「一筋の心をわたしにお与えください」と共に祈らせていただきましょう。「あなたのまことの中を歩む者として私たちを導き続けてください。祝福してください。」と祈ります。
4.信仰と祈り
25節に戻ります。主イエス・キリストが、「わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」とお命じになると、子供は癒されたのです。
26節に、霊は出て行き、息子は主イエスに癒されて「死んだようになった」と書かれています。周りの人はその息子が死んでしまったと思いました。
しかし、27節には、「イエスが手を取って『起こされると』『立ち上がった』」と書かれています。新約聖書が大切に用いた『起こされる』『立ち上がった』というこの言葉は、私どもの復活の約束の言葉になっているものです。
この息子が、主によって手を取って起こされたように、私どももまた、主に助けをいただいて起き上がるのです。立ち上がるのです。
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