ペトロの信仰告白(マルコ8:22-30) 20250209
- 金森一雄
- 2月9日
- 読了時間: 8分
更新日:2 日前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年2月9日降誕節第7主日礼拝における説教要旨
です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
イザヤ書42節1-9節(旧1128頁)
マルコによる福音書8章 22-30節(新77頁)
1.盲人のいやし
今日の聖書箇所マルコによる福音書8章 22節に、「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」と書かれています。ベトサイダは、アラム語で「漁師の家」という意味です。ガリラヤ湖の北岸東側の河口から1.5kmほど入った地点にあり、イエス・キリストの最初の弟子になったアンデレ、ペトロ、ピリポの故郷(ヨハネ1:44)です。
そして23節には、「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。」と書かれています。
主イエスが盲人の手を取って、村の外に連れ出したということには、訳があります。
もしこの盲人が突然群衆の中で視力を回復したとすると、その両眼に群衆や自然の美しさが一度に飛び込んで来てしまうので当惑してしまうだろうという、主イエスの身体的な障がいを持つ人への配慮があったのです。
そして、主イエスがご自分の唾を手につけて、身体的な障がいを持つ人をいやしています。
7章33節の耳が聞こえず舌の回らない人をいやした出来事でもそうでした。
古代社会では、唾のもついやしの力が信じられていたので、主イエスは主イエスがいやしをする権能があることをその盲人に理解できる方法として、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになったのです。
ここでは、この盲人の信仰や行いについては何も書かれていません。主の恵みとは、行いによってでも、対価を払うことによってでもなく、無条件にタダで与えられることが書かれているのです。
24節に、「すると、盲人は見えるようになって」、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」と言っています。
それから25節で、「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」と言うのです。
このように、主イエスはいつもその人が理解できるような方法で、話しかけ、働きかけてくださる、惠みと愛に富んだ方なのです。
2.段階的ないやし
何と言っても、今回のいやしの最大の特徴は、主イエスのいやしが一瞬にして行われたものではなく、段階的にいやされたことです。
「何か見えるか」と主イエスがお尋ねになったとき、24節でこの人が「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」と答えていますので、おそらくぼやけて見えるようになったということなのでしょう。まだはっきりとは見えていないのです。
そして25節で、「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」と言うのです。
ここには、人は誰も、神の真理を一度にすべてを見ることができないと言う、象徴的な神の真理が表わされています。
例えばキリストに従う決心をして洗礼を受ければ、すぐに成熟したクリスチャンになれるとか、教会の正会員になれば、救いの最終地点にまで到着するなどと考えることは避けるべきです。洗礼を受ける決心をして、洗礼を受けて教会員になるということは、クリスチャンとしての信仰生活の第一歩を踏み出したことに過ぎません。
その人が、絶えることのない無尽蔵のキリストの豊かさの源泉を発見したということです。
それが惠みというものであり、惠みを受取る信仰生活を歩み出したということに過ぎないのです。主イエスの惠みのうちに、信仰によって突然の回心、悔い改めという、180度の方向転換をすことが起こります。それがすばらしい真実なのです。
しかしながら、私たちは主の惠みの中で日毎に回心し続けなければなりません。
それによって、神の恵みと栄光を受取って、生涯学び続けることになるのです。
この神の権能について、すべてを知るようになるには、永遠の時間が必要です。
人は、百年、千年、万年生きながらえたとしても、惠みにおいて成長しなければ意味がありません。人間は、主イエス・キリストが示してくださる真理と無限の驚きとその美しさを日々学び続けなければならないのです。
すぐれた医者は、患者の心や心情の奥底にふれ、患者の恐れや不安を理解し、共に苦しんでくれます。すぐれた教師は、人の心の奥底に入り、その人の問題、困難、つまずきの石を見出します。
主イエスは、本人が自分の心の扉を開きさえすれば、その人の心にお入りになってくださる方なのです。
人を単純な心で理解し、受け止めて、その人が把握できるような方法で話しかけ、働きかけてくださる方なのです。
そう言った観点からみても、礼拝説教は、神の言葉とその真理をお伝えすることが期待される働きなのです。
3.途中
その後27節で、「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」と書かれています。
このフィリポ・カイサリア地方とは、ガリラヤ湖の北方約45kmにあり緑豊かな自然が広がる地方です。その道中では、宣教を始めて多忙を極めていた主イエスと弟子たちがじっくり語り合う良いときが与えられたようです。
「方々の村」に出かけられた、と書かれていますから、二三日の旅ではなく、一週間、あるいはもっと長くかかったのかもしれません。
そして「その途中」、主イエスが弟子たちに語られました。
「結果」ばかりに目を奪われがちな弟子たちに、「途中」であなたはどう受け止めどう見ているのか、と主イエスが弟子たちに問いかけたのです。すべてが見通せている訳でもないが、これからどうなるのか、上手く行くのかいかないのか、私たちは、いつもそのように先の見えない「途中」に置かれているのです。先が分からないなりに、私たちは決断を求められます。「途中」とは「主から問われる時」を意味する言葉のようです。
27節で、主イエスは、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われました。
他人の評価を尋ねることは、他人からの評価のみ、他人の噂だけが、自己理解のための材料となっていた、昔の人の自己理解のあり方を典型的に示すものです。
それに対して28節で、弟子たちは耳にした名前を口にします。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と書かれていますが、どれも的外れです。
洗礼者ヨハネは、荒れ野で、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた人物です。領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、首をはねられてしまいましたが、主イエスの名が知れ渡ると、人々は、その洗礼者ヨハネの霊が主イエスの内に働いていると噂していました(マルコ6:14)。
エリヤは、紀元前9世紀に活躍した預言者で、生きたまま炎の馬車に乗って天に上げられた人物です。旧約の最後のマラキ書3章23節に、主の日の到来に先立って、預言者エリヤが遣わされると預言されています。
預言者の一人とは、旧約聖書に登場する預言者の一人ということですが、旧約聖書と新約聖書の間には400年もの空白があります。その間、預言者は与えられず、神様は、沈黙しておられました。
しかし、この時主の宣教の働きを目にした人々は、主イエスを預言者の一人であると噂していたということです。
4.ぺトロの信仰告白
29節で、主イエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と核心を突く質問を投げかけます。弟子たちに自分の目で、自分自身がどんな人間であるか、どんな価値があるかを考えさせたのです。
ここで主イエスは、他人の噂だけでなく、最も近いところに共にいる、弟子たち自身の目を問うたのです。
弟子たちはそれまでパンの奇跡を目の当たりにし、ガリラヤ湖面を歩かれたイエス様を見たのに、自分の答えを積極的に述べるのを避けます。その中でペトロが、29節で「あなたはメシアです」と信仰告白をしています。
聖書のギリシャ語原典では、「あなたはΧριστός(キリスト)である」と書かれています。新共同訳では、Χριστόςという言葉が称号として用いられているときは「メシア」と訳し、固有名詞といて用いられるときはキリストと訳しているのです。
メシアという言葉はヘブライ語です。直訳すると「油をそそがれた」という意味で、超人間的な英知と能力をもってイスラエルを治める王者という意味です。
神様は、御自分の特別な働きに人を任命するとき、その人の頭に油を注ぐことを命じられました。そしてユダヤ人たちは、新しいエルサレムが到来し、新しいエルサレムの都に自分たちは集められるというメシア思想を信じていました。
ですから、ユダ人たちの多くが抱いていたメシア像には、十字架の意味を含める余地はなく、主イエスが示した苦難の僕の愛が入り込む余地はなかったのです。
ペテロは、主イエスの中に超人的な英知と能力があると思ってこの信仰告白に導かれたのでしょう。
ペトロはここで、イエスというお方は「Χριστός」、メシア、救い主であるという自分の理解をこの言葉で表現したのです。
ペトロの言葉からすると正しい信仰告白ですが、ペトロのこの新約聖書で初めて行われた信仰告白は不完全なものだったようです。
その後のマルコ8章23節で「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と主イエスに叱られているように、ペトロは完全には主なる神としての理解をするに至っていなかったのです。
ですから30節で、主イエスは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」と言うのです。
主イエスは、「だれにも話さないように」という同じ言葉を、悪霊に対しても、病をいやされた人にも、さらに弟子たちにも用いられて、「沈黙」を要求されています。
ところが、皆、主の言いつけを無視して、いや、黙っていられないで、盛んに主イエスのことを証ししています。それが、教会の今日につながっているのです。
私も不完全、未熟者と告白せざるを得ない者です。主イエスの愛と恵みをいただき続ける必要がある者で、キリスト者として工事中の身です。キリスト者とは、常に主に導かれながら完成を目指して工事中の人々を言うのです。
ではなぜこの段階ではマルコが「だれにも話さないように」と言うのかについては、次週お話しすることになります。
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