ナアマンの信仰(列王下5:14~17)
- 金森一雄
- 2023年12月1日
- 読了時間: 7分
更新日:2024年5月20日
本稿は、2023年12月1日(金)の東京神学大学チャペル礼拝説教です。
【旧約聖書 列王記下5章14-17節】
14ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
15彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」
16神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。
17ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。

1.はじめに
列王記は、王がどのような宗教的態度で国を支配したか、ということに焦点を当ててイスラエル史を記している書物です。筆者は、イスラエルの神である主に、忠実であるか、不忠実であるかが、歴史の成り行きを決定することを語ります。そして、列王記を読む人々に、不忠実の結果として生じたことを明示して、人々に悔い改めを呼びかけているのです。
列王記下の5章では、こともあろうに、イスラエルの神である主が、敵国シリア、当時のアラムの国の、軍司令官ナアマンを用いたことが記されています。主のなさることは、私たちの思いをはるかに超えており、驚かされます。
早速、今日の聖書箇所から、異邦人ナアマンの信仰を学び、全世界にゆきわたる主の憐みと恵みの豊かさを賛美させていただきたいと思います。
列王記下5章の1節には、ナアマンの紹介が記されています。
ナアマンは、イスラエルの敵国アラムの王に重んじられ、気に入られていました。それは、主がかつてナアマンを用いて、イスラエルの敵国アラムに勝利を与えられたからであるというのです。そして、ナアマンは勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。と、紹介されています。ナアマンは、イスラエルの主に用いられて祝福されていましたが、それと同時に、私たちと同じような人間で、重い病の癒やしを必要としていたのです。
2.ナアマンの信仰告白
10節で、神の人、預言者エリシャが使いの者を用いて、ナアマンに対して、
「ヨルダン川に行って七度(ななたび)身を洗いなさい。」と告げました。
エリシャの命令は、「そうすればあなたを癒そう」という、神の御旨を伝える言葉です。それは、実に単純な行為でした。身を洗うことを七度(ななたび)同じように繰り返すということは、純粋な信仰がなければできません。
ナアマンに、御言葉に聞き従う信仰が求められました。
繰り返し身を洗う中で、神がその重い皮膚病を癒す変化の兆しを、少しずつでも与えてくださったなら、その信仰の確信は揺らがなかったでしょう。
しかし、一度、二度、三度、四度と繰り返しても、一向に病が良くなる兆しは現れません。信仰を持って始めたとしても、次第に疑いの心が芽生え、信仰が揺らぐというものです。その揺らぐ思いを断ち切って、七度(ななたび)繰り返すことは、本当に信じていないとなかなか出来るものではありません。
「七」という数字は、完全を表します。
神の人、預言者エリシャが告げた言葉は、神の言葉です。
ナアマンは、主に従う従順さを示しました。御言葉に従うと、身体が元に戻り、清くなりました。神は、完全な信仰の服従を示したナアマンを、完全に癒されたのです。信仰の完全な従順と、癒しの完全の連動が、ここに記されているのです。
3.ナアマンの謙遜な姿
癒されたナアマンの態度を確認してみましょう。
15節に、イスラエルに敵対する強国アラムの軍司令官というプライドを捨ててて主に従う者となった、ナアマンの姿が記されています。
重い皮膚病を癒されたナアマンは、良かった、良かった、と言わんばかりに、有頂天になって、そのまますぐに故郷のシリアのダマスコに帰ってはいません。
ナアマンの律儀さが記されています。随行員全員を連れて、神の人エリシャのところに引き返します。重い皮膚病が完全に癒されたナマンは、神の人エリシャの前に立って、おそらく直立不動の司令官らしい姿で、このように語りました。
「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」
敵国の軍司令官が、感謝の気持ちを表して、主への献身の意思を表しています。ところが、神の人エリシャへの「贈り物」を贈ろうとしたのです。主なる神への献身のしるしとしての「捧げ物」とはみなされなかったのです。その違いをお分かりいただけますか?
エリシャは、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」といって辞退しました。
エリシャは、神の命令を直接与えたのが自分であるとしても、ナアマンを癒したのは自分ではなく、生ける主の働きだということを示したのです。
ナアマンはエリシャに強いて受け取らせようとしますが、エリシャは断わりました。(16節)
4.ナアマンの信仰者としての旅立ち
するとナアマンは、「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。」と語っています。
らばは、雄のロバと雌の馬の交雑種の家畜で、両親のどちらよりも優れた雑種強勢の代表例です。ナアマンは、その土地の「土」が、エリシャを訪問し、そこで主の救いを経験した喜びを想起させるものとして、その「土」を持ち帰りたいと願ったのです。その量は、アラムの軍司令官ですから半端ないものでした。この聖書箇所に接すると、私は、甲子園で試合を終えた球児たちが、球場の土を記念として持ち帰えるために、汗と泥にまみれた姿で、甲子園の土をかき集めて自分のシューズケースに入れている姿を思い出します。
どちらも、そこにある土に神聖を認めて持ち帰ろうとしているのではありません。ナアマンは、今回の出来事で、イスラエルの神こそが主であると知りました。「僕(しもべ)は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」と、信仰告白しています。
主を礼拝し、主の優位を認め、その身を主に捧げることを決意して、イスラエルの「土」を、記念として自分の祖国に持ち帰ることを申し出たのです。
そして19節では、ナアマンが「神によって召された者」として、神の人エリシャから「安心して行きなさい」と言われています。
そして、ナアマンは、自分の故郷、アラムの首都ダマスコに向けて帰還していったのです。
今日のナアマン物語のキーワードは、この「安心して行きなさい」です。
そしてこの後、異邦人を含めたすべての民が、主を賛美することになるのです。
私たちは、主に召され、所属教会の皆さんや東京神学大学の先生方と職員の皆さんからいただく、執成しの祈りに支えられています。言い尽くすことのできない感謝の中に身を置かせていただいています。たくさんの講義の中で、たくさんの史料をいただきました。それは、私にとって東京神学大学の記念の「土」となりました。
そして、来春、新たな地に遣わされる私たちM2は、旅立ちのときが近づきました。東京神学大学の記念の「土」として、いただいた「史料」をこの身に精一杯詰め込んで、主の召しに従い、信仰の確信を持たせていただき、新たな歩みを始めようとしています。
旅立ちのときが近づきました。「安心して行きなさい」と語ってくださる主に従って参ります。
(祈り)
父、子、聖霊の三位一体なる神さま。主の御名を賛美いたします。
神さま、わたしたちは本当に弱い者です。
あなたの助けがなければ、前に歩(あゆ)み出すことができません。
これまで弱さを抱えながら歩(あゆ)むわたしたちを、
あなたの御翼の中で見守ってくださったように、
これからもあなたの大いなる愛の中に止まらせてください。
主よ、わたしたちに誇れることがあるとすれば、
十字架の中で生きている日々があることです。
礼拝から礼拝への民として、
御言葉を聞き、あなたの愛を信じていることです。
あなたを信頼して歩(あゆ)める、この信仰生活を感謝いたします。
今わたしたちは、共に御言葉を聞き、
あなたの御前で頭を垂れています。
わたしたちを、あなたの幻を見る民として覚えてください。
イエスさまが招かれるとき、
確信を持って、安心して行くことができる僕(しもべ)とさせてください。
それが荒れ野であっても、茨の道であっても、険しい道のりであっても、
耐え忍ぶ心をわたしたちに与えてください。
白髪になるまで、背負って行こうといわれるあなたを信じ、
共に励まし合いながら歩み続ける信仰を与えてください。
そして、わたしたちを恵みのよき通り管として用いてください。
今、共に頭を垂れている一人一人の上にキリストの愛がふり注がれますように。
再び来られる主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン!
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