本稿は、東京神学大学夏期伝道実習における、2021年8月29日の横浜指路教会主日礼拝説教をまとめたものです。 神学生 金森一雄
http://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/message/shiloh_message210829mf.htm
イザヤ書第53章11、12節
マルコによる福音書第14章32〜42節
神の独り子、イエス・キリストが真の人として、この地上での歩みを始められて、30年余りの生涯を過ごされています。今日の聖書箇所は、主イエスが、神のご計画に従って、わたしたちの罪の贖いのために、十字架に架けられる日の前日、木曜日の深夜の出来事です。
この晩、イエスさまと弟子たちは、イエスさまの生涯最後となる過越の食事をされます(14:12)。当時の習慣からすれば、午前零時を回らない時刻には、終了していたと思われます。過越の食事を終えて、イエスさまと弟子たちは、エルサレムの東門から出て、キドロンの谷を周回する下り坂を、賛美しながらオリーブ山に向かっていきます(14:26)。
(1)ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて
エルサレムの東門からゲツセマネまでは、1km弱の距離です。深夜の1時過ぎになっていたでしょう。イエスさまの一行は、ゲツセマネにやって来ました。ゲツセマネとはアラム語で、オリーブの油搾りという意味です。エルサレム神殿の東側には、オリーブが群生して植えられている山があって、オリーブ山と呼んでいました。そしてその山の麓(ふもと)付近の園を、ゲツセマネと名付けていました。エルサレムの巡礼者たちが野宿をする場所となっていて、イエスさまと弟子たちも度々集まっていた場所(ヨハネ18:2)です。
一同がゲツセマネに到着すると、イエスさまは弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」(14:32b)と仰いました。そして、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて、奥の方へ入っていかれました。イエスさまが、この三人を選んで行動されることは、これまでにも何度かあります。
会堂長ヤイロの娘にイエスさまが、「タリタ・クム」と言われて、その娘を死の床から起きあがらせた時も、その娘の両親とこの三人の弟子だけが、イエスさまのそばにいました(5:40)。また、イエスさまがこの三人だけを連れて高い山に登られた時、イエスさまの姿が変わって、服が真っ白に輝いて、エリヤがモーセと共に現れて、イエスさまと語り合っているのを、目撃したのもこの三人でした(9:2,3)。このようにイエスさまは、重要な出来事の証人として、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を用いていました。
(2)真の人としての苦しみ
ゲツセマネの場面に戻りましょう。この晩、イエスさまと共に、ゲツセマネの奥の方に進んで、この三人の弟子が目にしたものは、先ほどお話ししたような、高い山で主イエスが栄光の姿に変わった姿ではありません。イエスさまが、「ひどく恐れてもだえ始めた」のです(14:33b)。この聞き慣れない「ひどく恐れてもだえ始める」という言葉は、魂が経験する最大の深い苦悩を表すものです。死を前にして、恐れともだえを感じない人はいないと思います。真の人となられたイエスさまも、その例外ではありませ。と言うより、イエスさまが味わった苦しみは、それ以上のものだったのです。
続けて主イエスは、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と仰います(14:34)。弟子たちに、精神的にも物理的にも自分の元から離れないで、目を覚ましていることを求められたのです。
イエスさまは、これからご自分がどのようにして死ぬのかをご存知でした。エルサレムに向かって上って来る道中で、すでに三度もご自分の死と復活について、弟子たちに予告されています(10:32)。さらに、過越の食事では、自分が弟子としたユダが裏切ろうとしている(14:18)ことを、実名こそ出されませんでしたが弟子たちに告げています。過越の食事を終えて、ゲツセマネに向かう道では、弟子たちが皆イエスさまにつまづいて、散り散りになってしまう(14:27)ことも、弟子たちに語っています。そして、ペトロには、鶏が二度鳴く前に、三度イエスさまを知らないと言う(14:30)ことも、予告していました。
(3)アッバ、父よ
イエスさまは、それから一人で少し進んで行って地面にひれ伏して祈られます。「できることならこの苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」(35節)、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。と、言われました。
イエスさまが「アッバ」父よ、と祈ったことは、当時のユダヤ人社会の宗教的な慣習をひっくり返すような出来事です。ユダヤ人の唯一の神は、「在りて在るもの」と言われ、まさに大いなる神で、近づき難くて、見ることの出来ない偉大な方です。当時のユダヤ人の祈りの冒頭には、何重にも神の偉大さを称える言葉を用いていました。
ところがイエスさまは、当時のユダヤ人の家庭で、幼子が自分の父に向けて、深い信頼を込めて呼ぶ時に使う、「アッバ」という言葉で神に祈りはじめたのです。この呼びかけをすることによって、イエスさまは、ご自分が神の独り子として、父なる神に親しく呼びかけておられることをお示しになったのです。
聖書を調べて参りますと、確かにイエスさまはいつもこの言葉を用いて、父なる神さまに語りかけて、祈っていることが分かります。今日、私たちが、主の祈りを祈るときには、「天にまします我らの父よ」と冒頭で語り掛けていますが、それは、イエスさまが模範の祈りとして、「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と語りかけなさいと示してくださったからなのです。
ですから、今もお祈りの冒頭でわたしたちは、『天の父よ』と神に語りかけて祈ります。そして、父なる神を「アッバ」と呼ばれる、神の独り子主イエスが、天の父のもとで執り成しをしてくださるので、わたしたちは、主イエスのお名前によって祈ることが出来るのです。
(4)この杯
このアッバ、という呼びかけに続いて、イエスさまは、「あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36節)と、祈られました。
この祈りの中では、イエスさまのこの時の苦悩を「この杯」(36節)と表現しています。「杯」は神の裁きを意味しています。その杯は本来、神に背いてきた、わたしたちが受けなければならないものです。その「杯」を、イエスさまは父なる神の御心に従って、私たちに代って飲んでくださるのです。父なる神から、イエスさまに与えられていた使命は、神の裁きの中で、わたしたち人間が味合わなければならない悲しみや苦しみを、イエスさまが代って背負ってくださることだったのです。
イエスさまは、この苦しみの杯を取りのけてもらいたいと父なる神に願っています。イエスさまにとっても「神の怒りの杯」を飲むことはこの上なくつらく苦しく、恐れもだえることなのです。この杯、つまり主イエスが直面している十字架の死の苦しみは、何でもできる力を持つ父なる神だけが、主イエスから取りのけることができるものなのです。
神さまのご計画に従って、地上に生を受けた真の人としてイエスさまに与えられた使命は、十字架の苦しみ、死、復活の道を歩んで、わたしたち人間の救いを成就することにありました。そのためには、イエスさまはこのような苦しみを経験しなければならなかったのです。イエスさまはこれらのこと全てを分かった上で、天の父である神さまに、全幅の信頼を置いて御心に従っていかれたのです。
すなわち、自分の願うことではなく、父なる神さまの御心に適うことを行うことこそが、イエスさまに与えられた使命であり、それによって罪人の救いが実現するのです。例え、それが苦しみの極限に至るものであっても、神さまの御心を受け入れ、それに従いますという、父なる神さまへの深い恐れと敬いをもって、父なる神への従順を示す祈りをしているのが、主イエスのゲツセマネの祈りなのです。そしてその中で、私たちが罪を赦されて新しく生きるために、主イエスが、神の怒りの杯を私たちに代って引き受け、飲み干して下さるのです。それが、主イエスの愛であり、私たちの救いのためにご自身の命をささげてくださる愛であることをわたしたちに示してくださっているのです。
(5)目を覚まして祈っていなさい
先にイエスさまは、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」(14:34b)と三人の弟子たちに仰っていました。イエスさまの悲しみ、苦しみとは、まさに弟子たちや私たちのための悲しみであり苦しみでしたから、弟子たちに傍にいっしょにいて欲しかったのです。ところが、イエスさまが一人で少し先に行って祈り、三人の弟子たちのところに戻ると、弟子たちは眠っていました(14:37)。
眠っていたペトロに、イエスさまは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(14:38)と言われました。
これは、眠ってしまったペトロへの叱責の言葉ではありません。死に直面した信仰者の多くが、最後にはただ祈る力を与えてくださいと祈ります。ここでも、イエスさまは、わたしがあなたたちの罪を背負うのだから、共に祈ることによって支えてほしいと願われたのではないかと思います。
そして、「心は燃えても、肉体は弱い」というイエスさまの言葉が続きます。心が燃えるという言葉は、ギリシャ語の原典からは、「霊がはやる(先に行きたがる)」と読み取れます。主は、聖霊の働きを私たちの体を用いて行われます。聖霊が働こう、先に行こうとしても、他方では私たちの肉体そのものが弱いと、イエスさまが仰っているのです。
ここで主イエスは、聖霊がはやって先に行こうとしても、わたしたち人間は、どうしようもない肉体の弱さを持っていることをご存知で、自分の肉体の弱さを覚えながら、聖霊の働きが我が身に降り注がれますようにと目を覚まして祈っていなさい、と言っているのです。主イエスは弟子たちに、共に神に祈り、主の御心に従おうとすることを共感することによってこそ、弟子たちは苦しみの中にある主イエスを支えることができると思っておられるのです。
イエスさまは、三人の弟子たちから少し離れたところで、都合三度にわたりお一人になって祈られます。イエスさまが、祈りから戻られると、三度とも、弟子たちは眠っていました。弟子たちは瞼が重たくなって眠ってしまいます。ひどく眠かったようで、弟子たちはイエスにどう言えばよいのか、分からなかったと記されているのです(14:40)。
弟子たちは返す言葉が見当たらなかった、何も言い訳ができなかったのです。これが弟子たち、いやわたしたちの弱い肉体を持つ人間の現実なのです。肉体はもとより、わたしたちにはどうしようもない弱さがあるのです。神さまは、わたしたちに語るべき言葉を語り、与えるべき賜物を与えてくださいますが、わたしたちは何を言うべきかを知らない、分からない、祈っていることができない者なのです。
三度ということは、この後、ペトロが三度、イエスさまのことを知らないということになるのと重なります。聖書の中では、三度ということがよくありますが、「完全にとか、徹底的に」という意味です。完全に、徹底的に、イエスさまを裏切る弟子たちの姿は、今日こうしてお話ししているわたし自身の姿でもあるのです。自分の力でどうすることもできない者の姿であり、主の憐れみをいただくしかない者の姿なのです。
三度目に戻って来られた主イエスは、私たちの弱さを心から気遣いながら、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」(14:41b)。と、仰います。
この「時」とは、まさにイエスさまが、ユダの裏切りによって捕らえられて、ご自身が十字架に架かられる時のことです。イエスさまの十字架とは、父なる神の主権に子なる主イエスが徹底的に従ったものです。天の父なる神さまに従う、というイエスさまの自主的なご判断でもあったのです。イエスさまは、その生涯を通じて、多くの苦しみを味わい、従順を学ばれました。それによって、すべての人間を救済する使命を完遂されるのです。
そのことによって、わたしたちのために神の独り子である主イエスが、十字架の苦しみを引き受けてくださるという、神のわたしたちへの深い憐れみと愛の現れ、神の愛がここにあることが示されているのです。
(祈り)
愛する天のお父さま、今日は、ゲツセマネの祈りの聖書箇所から、あなたの独り子イエス・キリストをこの世に生きるものとして送ってくださり、わたしたちが負うべき罪を主イエスが、肩代わってくださり、死の苦しみと悲しみをも味わってくださったことを学ばせていただきました。ゲツセマネのあなたの祈りの中に、あなたのわたしたちへの深い憐れみの心と愛が示されていることを覚え、あなたの御名を賛美します。
主よ、お赦しください。それにもかかわらず、誘惑に陥ってしまい、あなたを裏切ってしまう弱い者です。どうか、この罪深いわたしを憐んでください。
デルタ株の脅威が拡がる中で、世界中が慌てふためいています。天地を造られ、全地を統治してくださっている主を畏れる者とさせてください。主イエスによる救いと恵みの業だけに頼って、福音を宣べ伝える者とさせてください。あなたを畏れて、目を覚まして祈る者とさせてください。この身に聖霊を降り注いで、あなたの御用に用いていただける者としてください。
言い尽くせぬ感謝と願いをこめて、主イエス・キリストのお名前によってこの祈りを御前にお捧げいたします。
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