ゲッセマネの祈り(ベテル教会)
- 金森一雄
- 2023年8月20日
- 読了時間: 18分
更新日:2023年10月18日

本稿は、2023年8月20日(日)の日本基督教団べテル教会の主日礼拝における説教原稿を要約したものです。
出エジプト12:21-23 (旧約聖書p.112)
21:モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。
22:そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。
23:主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
マルコ14:32-42 (新約聖書p.92)
32:一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
33:そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
34:彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
35:少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
37:それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
38:誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
39:更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
40:再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
41:イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
42:立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
(1)十字架を想起させる出来事
旧約聖書112頁、出エジプト記の12章21節から23節の出来事は、エジプトにおいてイスラエルの人々が重労働のゆえに助けを求めて、うめき、叫び、彼らの叫び声が神に届いた(出2;23)時に、主がモーセを用いて、まさにエジプト人の手からイスラエルの人々を救い出す前の晩(21,23節)の出来事です。家の鴨居と入り口の二本の柱に、過越の犠牲となった羊の血を塗って、主がエジプト人を撃つために巡るときにそれを見て過ぎ越してくださった出来事です。
その状況を想像してみてください。イスラエルの民の家の玄関には、二本の赤い血に塗られた十字架が立っている状態になっていたのです。
出エジプト記には、7章から11章にかけて10の災いが記されています。
①血の災い(出7:14)、②蛙の災い(出7:25)、③人と家畜のぶよの災い(出8:12)、④*あぶの災い(出8:16)、⑤*家畜の疫病の災い(出9:1)、⑥人と家畜のはれ物の災い(出9:8)、⑦*雹の災い(出9:13)、⑧いなごの災い(出10:1)、⑨*暗闇の災い(出10:21)、⑩*最後の災い・国中の初子の死(出11:1)。
*は、主がエジプトとイスラエルを区別したので、イスラエルの人々には及ばなかった。
10番目の初子の死という災いが起きる直前に、主がモーセに命じたことが、「主の過越」(出12:1)という小見出しがつけられている出来事です。一歳の雄(おす)の小羊(12:5)が過ぎ越しの犠牲とされます。そして、その子羊の血を、鴨居と入り口の二本の柱に塗りました(出12:7)。
もうお分かりのように、この出来事は、新約聖書の主イエスの十字架の死によって、私たちを救い出してくださった(Ⅰペトロ2:24)、神の愛を示す預言的出来事として振り返ってみることができるもので、いまでもユダヤ教の三大祭の一つとして、春分後に祝われていますが、この起源としてモーセに導かれたイスラエル民族のエジプト脱出を記念して、祝っているのです。
今朝、私たちに与えられましたもう一つの聖書箇所は、私たちの出エジプト(罪の贖い)のために、主イエスが十字架に架けられる日の前日、木曜日の深夜の出来事です。その直前12節には、最後の晩餐といわれる過越の食事を弟子たちとともにされています。当時の習慣からすれば、午前零時を回らない時刻には、過越の食事は終了していたと思われます。そして、26節には、過越の食事を終えて、主イエスと弟子たちは、エルサレムの東門から出て、キドロンの谷を周回する下り坂を、賛美しながらオリーブ山に向かっていったことが記されています(14:26)。
(2)ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて
過越しの食事をされたエルサレムから、東門から出てゲッセマネまでは、1km弱の距離です。深夜の1時過ぎになっていたでしょう。主イエスの一行は、ゲッセマネにやって来ました。エルサレム神殿の東側には、オリーブが群生して植えられている山が広がっていて、オリーブ山と呼んでいました。そしてその山の麓(ふもと)付近の園を、ゲッセマネと名付けていました。ゲッセマネとはアラム語で、オリーブの油搾りという意味です。
ヨハネによる福音書18章2節には、エルサレムの巡礼者たちが野宿をする場所となっていて、主イエスと弟子たちも度々集まっていた場所だと記されています。今流にいえば、道の駅のようなものでしょう。
一同がゲッセマネに到着すると、主イエスは弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」(14:32b)と仰いました。そして33節に、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて、ゲッセマネの園の奥の方へ入っていかれた、とさらっと記されています。
主イエスが、この三人を選んで行動されることは、これまでにも何度かあります。
会堂長ヤイロの娘に主イエスが、「タリタ・クム」と言われて、その娘を死の床から起きあがらせた時も、その娘の両親とこの三人の弟子だけが、主イエスさまのそばにいました(5:40)。また、主イエスがこの三人だけを連れて高い山に登られた時、主イエスの姿が変わって、服が真っ白に輝いて、エリヤがモーセと共に現れて、イエスさまと語り合っているのを、目撃したのもこの三人でした(9:2,3)。主イエスは、重要な出来事の証人として、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を用いていたのです。
(3)真の人としての苦しみ
ゲッセマネの場面に戻りましょう。
この夜、主イエスと共に、ゲッセマネの奥の方に進んで、この三人の弟子が目にしたものは、どのようなものだったと聖書に記されているでしょうか?
主イエスが、「ひどく恐れてもだえ始めた」と記されています(14:33b)。この「ひどく恐れてもだえ始める」というのは、聞き慣れない言葉です。魂が経験する最大の深い苦悩を表すものです。死を前にして、恐れと、もだえを感じない人はいないと思います。真の人となられたイエスさまも、その例外ではありません。というより、主イエスが味わった苦しみは、その背後にある神のご意志を忖度すると、私たち人間には想像もできないものだったのです。
続けて主イエスは、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と仰います(14:34)。人間としてのイエスさまは、弟子たちに、精神的にも物理的にも自分の元から離れないでほしい、目を覚ましていてほしいといわれたのです。
主イエスは、これからご自分がどのようにして死ぬのかをご存知でした。
エルサレムに向かって上って来る道中ですが、このゲッセマネの園に来るまでに、すでに三度も、自分の身に起ころうとしていること、すなわちご自分の死と復活について、弟子たちに予告されているのです(8:31,9:31,10:32)。さらに、過越の食事では、自分が弟子としたユダが裏切ろうとしている(14:18)ことを、実名こそ出されませんでしたが弟子たちに告げています。過越の食事を終えて、ゲッセマネに向かう道では、弟子たちが皆、主イエスにつまずいて、散り散りになってしまう(14:27)ことも、弟子たちに語っています。さらに、ペトロには、鶏が二度鳴く前に、三度主イエスを知らないと言う(14:30)ことも、予告していました。主イエスは、すべてを御存知でその定められた道を従順に歩まれました。
(4)アッバ、父よ
主イエスは、それから一人で少し進んで行って地面にひれ伏して祈られます。「できることならこの苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」(14:35節)、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)。と、言われました。
イエスさまが「アッバ」父よ、と祈ったことは、当時のユダヤ人社会の宗教的な慣習をひっくり返すような出来事なのです。
ユダヤ人の唯一の神は、「在りて在るもの」と言われ、まさに大いなる神で、近づき難くて、見ることの出来ない偉大な方です。当時のユダヤ人の祈りの冒頭には、何重にも神の偉大さを称える言葉を用いていました。
「アッバ」は、当時のユダヤ人の家庭で、幼子が自分の父に向けて、深い信頼を込めて呼ぶ時に使う言葉で、「父ちゃん」といったニュアンスのあるものです。ユダヤ人が聞いたら、神を冒涜していると揶揄されて納得してもらえないでしょう。ところが主イエスは、当時のユダヤ人の家庭で、幼子が自分の父に向けて、深い信頼を込めて呼ぶ時に使う、「アッバ」という言葉で神に祈りはじめたのです。聖書を調べて参りますと、確かに主イエスはいつもこの言葉を用いて、父なる神さまに語りかけて、祈っています。この時も、敢えて「アッバ」と呼びることによって、主イエスは、ご自分が神の独り子として、父なる神に親しく呼びかけておられることをお示しになったのです。
今日、私たちが、主の祈りを祈るときには、「天にまします我らの父よ」と冒頭で語り掛けていますが、それは、主イエスが模範の祈りとして、「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と語りかけなさいと示してくださったからなのです。
ですから、今もお祈りの冒頭でわたしたちは、『天の父よ』と神に語りかけて祈ります。そして、父なる神を「アッバ」と呼ばれる、神の独り子主イエスが、天の父のもとで執り成しをしてくださるので、わたしたちは、主イエスのお名前によって祈る恵みに与かることが出来ているのです。
(5)この杯
このアッバ、という呼びかけに続いて、主イエスは、「あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:36節)と、祈られました。
この祈りの中では、主イエスのこの時の苦悩を「この杯」(14:36)と表現しています。「杯」は神の裁きを意味しています。その杯は本来、神に背いてきた、わたしたちが受けなければならないものです。その「杯」を、主イエスは父なる神の御心に従って、私たちに代って飲んでくださるのです。父なる神から、主イエスに与えられていた使命は、神の裁きの中で、わたしたち人間が味合わなければならない悲しみや苦しみを、主イエスが代って背負ってくださることだったのです。
主イエスは、この苦しみの杯を取りのけてもらいたいと父なる神に願っています。主イエスにとっても「神の怒りの杯」を飲むことはこの上なくつらく苦しく、恐れもだえることなのです。この杯、つまり主イエスが直面している十字架の死の苦しみは、何でもできる力を持つ、父なる神だけが、主イエスから取りのけることができるものなのです。
神さまのご計画に従って、地上に生を受けた真の人として主イエスに与えられた使命は、十字架の苦しみ、死、復活の道を歩んで、わたしたち人間の救いを成就することにありました。
そのためには、主イエスはこのような苦しみを経験しなければならなかったのです。主イエスはこれらのこと全てを分かった上で、天の父である神さまに、全幅の信頼を置いて御心に従っていかれたのです。
(6)御心に適う祈り
すなわち、自分の願うことではなく、父なる神さまの御心に適うこと(14:36)を行うことこそが、主イエスに与えられた使命であり、それによって罪人の救いが実現するのです。この苦しみの杯を取りのけてもらいたいと父なる神に願い、一方では、それが苦しみの極限に至るものであっても、神さまの御心を受け入れ、それに従いますという、父なる神さまへの深い恐れと敬いをもって、父なる神への従順を示す祈りをしているのが、主イエスのゲツセマネの祈りなのです。
そして、このようなパニック状態だと感じられるような状況の先に、私たちが罪を赦されて新しく生きるために、主イエスが、神の怒りの杯を私たちに代って引き受け、飲み干して下さることがあるのです。それこそが、主イエスの愛であり、主イエスの先行する愛によって、私たちの救いのためにご自身の命をささげてくださることをわたしたちに示してくださっているのです。
わたしは7年前にゲッセマネの地を訪問する機会が与えられました。エルサレムの東門を見通せるゲッセマネの園には、オリーブの木が群生しています。主イエスのゲッセマネの祈りを記念して観光用に整備されており、主イエスが倒れ込んで祈ったとされる大きな石が置かれています。そのすぐ隣には『万国民の教会』があります。会堂の天井と壁には、所狭しとばかりにゲッセマネの祈りの各シーンが描かれています。
その教会堂の真正面の祈りの場所に、主イエスのゲッセマネの祈りの言葉が書かれた板が置かれています。主イエスがされたように、倒れ込んでひれ伏して(14:35)祈りを捧げる人も目にしました。わたしも倒れ込んでひれ伏して祈ってみました。
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことことが行われますように」(36節)というこの祈りの言葉が、各国の言語に翻訳されて掲示されています。勿論日本語もあります。 この教会を訪れた人々が、自国の言語で記されているこの祈りを確認しています。このように、十字架に架けられる直前のゲッセマネの死闘として、2千年後の今もなお、多くの人に覚えられているのです。今を生きるわたしたちも、神にすがって歩む幸いの道をこの言葉を通して確認することができるのです。
(7)目を覚まして祈っていなさい
先に主イエスは、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」(14:34b)と三人の弟子たちに仰っていました。主イエスの悲しみ、苦しみとは、まさに弟子たちや私たちのための悲しみであり苦しみでしたから、弟子たちに傍にいっしょにいて欲しかったのです。ところが、主イエスが一人で少し先に行って祈り、三人の弟子たちのところに戻ると、弟子たちは眠っていました(14:37)。
眠っていたペトロに、主イエスは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(14:38)と言われました。
これは、眠ってしまったペトロへの叱責の言葉ではありません。死に直面した信仰者の多くが、最後にはただ祈る力を与えてくださいと祈ります。ここでも、主イエスは、わたしがあなたたちの罪を背負うのだから、共に祈ることによって支えてほしいと願われたのではないでしょうか。
そして、「心は燃えても、肉体は弱い」という主イエスの言葉が続きます。
主は、聖霊の働きを私たちの体を用いて行われます。
聖霊の働きによって私たちの心が熱くなって燃えあがったとしても、他方では私たちの肉体には弱さがあり、なかなか思う通りにはならないのです。
主イエスは、わたしたち人間に、どうしようもない自分の肉体の弱さを覚えながら、聖霊の働きが我が身に降り注がれて力を与えてくださいと、目を覚まして祈っていなさい、と仰せになっているのです。
主イエスは、三人の弟子たちから少し離れたところで、都合、三度にわたりお一人になって祈られます。主イエスが祈りから戻られると、三度とも、弟子たちは眠っていました。弟子たちは瞼が重たくなって眠ってしまいます。ひどく眠かったようで、弟子たちは主イエスにどう言えばよいのか、分からなかったと記されているのです(14:40)。
ご年配の方から、いつの間にか礼拝中に眠り込んでしまった、という声をお聞きします。大丈夫ですよ。私も疲れているときには、一瞬だとしても、うとうとしてしまうこともあります。
40節には、「弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいか、分からなかった」と記されています。弟子たちは返す言葉が見当たらなかった、何も言い訳ができなかったのです。まさに、これが弟子たち、いやわたしたちの弱い肉体を持つ人間の現実です。肉体はもとより、わたしたちにはどうしようもない弱さがあるのです。神さまは、わたしたちに語るべき言葉を語り、与えるべき賜物を与えてくださいますが、わたしたちは何を言うべきかを知らない、分からない、祈っていることができない者なのです。自分の力でどうすることもできない者の姿であり、主の憐れみをいただくしかない者の姿です。完全に、徹底的に、主イエスを裏切る弟子たちの姿は、今日こうしてお話ししているわたし自身の姿でもあるのです。目を覚ましているということは、共に神に祈り、主の御心に従おうとすることを共感することです。ただ目を開いているということではありません。
私たちの肉体は弱いのですから、律法的になってあなたは眠っていたなどといって裁き合うことをせず、こうして一緒に礼拝に招かれ、参加させていただいていることに感謝して、励ましあい、慰めあいながら歩ませていただきましょう。私たちの歩む道を神に委ねて、共に歩んでいくことこそが、目を覚まして祈っていることになるのです。
三度目に戻って来られた主イエスは、私たちの弱さを心から気遣いながら、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」(14:41b)。と、仰います。
三度ということは、この後、ペトロが三度、主イエスのことを知らないということと重なります。聖書の中では、三度ということがよくありますが、「完全にとか、徹底的に」という意味です。
(8)時が来た
そして、主イエスは、「もうこれでいい」「時が来た」(14:41)とおっしゃいました。
「もうこれでいい」という意味については、多くの学者が英語で言えば、It's enough"「もう十分だ」と解釈しています。
この礼拝で熱心に聴いておられる皆さんに、聖書の解釈が深まることはあっても問題はないと思いますので、この言葉の翻訳において、少数派の異説があるのでご紹介します。
「もうこれでいい」のところを、「彼(ユダ)は報いを受けている」(マタイ6:5)と翻訳して解釈しているのです。
いずれにしても、そのあとの「人の子は罪びとたちの手に引き渡される」と、「見よ、わたしを裏切る者(ユダのこと)が来た」(14:42)に続いて、まさに主イエスが、ご自身が自ら選ばれた12人の弟子のひとり、ユダの裏切りによって捕らえられて、ご自身が十字架に架かられる時が来るのです。
主イエスの十字架とは、天の父なる神さまに従うというイエスさまの自主的なご判断でもありました。そして、父なる神の主権に子なるイエスが徹底的に従った姿を私たちが目の当たりにすることが許されている出来事なのです。
イエスさまは、その生涯を通じて、多くの苦しみを味わい、従順を学ばれました。それによって、すべての人間を救済する使命を完遂されるのです。
そして、わたしたちのために神の独り子である主イエスが、十字架の苦しみを引き受けてくださるという、神のわたしたちへの深い憐れみと愛の現れ、神の愛がここにあることが示されているのです。

(祈り)
愛する天のお父さま、今日は、出エジプト前夜の鴨井と2本の柱に子羊の血を塗ることによって過越しをした旧約聖書とゲツセマネの祈りの新約聖書の箇所から、あなたの独り子イエス・キリストをこの世に命を与えられたものとして送ってくださり、わたしたちが負うべき罪をあなたの独り子イエスが、肩代わってくださり、私たちの出エジプトを実現させるために、十字架の死の苦しみと悲しみをも味わってくださったことを共に聴かせていただきました。
ゲツセマネの主イエスの祈りの中に、あなたのわたしたちへの深い憐れみの心と愛が示されていることを覚え、あなたの御名を賛美します。
私たちは相も変わらず、地震、感染症、猛暑などで、想定外の出来事に直面したと言って、慌てふためいてしまいます。主よ、憐れんでください。お赦しください。
知らず知らずのうちに、誘惑に陥ってしまい、あなたを裏切ってしまう肉体の弱い者であることを告白します。この罪深いわたしを憐んでください。
あなたは、あなたの愛をいただいて信仰を持たせていただいた私たちに対して、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる」(Ⅰコリント10:13)と約束くださっています。
私たちを、天地を造られ、全地を統治してくださっている主を知り、主を畏れる者とさせてください。目を覚まして、あなたに祈る者とさせてください。主イエスによる救いと恵みの業だけに頼って、福音を宣べ伝え、あなたの栄光を賛美する者とさせてください。この身に聖霊を降り注いで、あなたの御用に用いていただける者に、成熟を目指して進む(ヘブル6:1)者にさせてください。
言い尽くせぬ感謝と願いをこめて、主イエス・キリストのお名前によってこの祈りを御前にお捧げいたします。

聖書:マルコ14:32-42
32Καὶ ἔρχονται εἰς χωρίον οὗ τὸ ὄνομα Γεθσημανὶ καὶ λέγει τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ· καθίσατε ὧδε ἕως προσεύξωμαι.
32:一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
33καὶ παραλαμβάνει τὸν Πέτρον καὶ [τὸν] Ἰάκωβον καὶ [τὸν] Ἰωάννην μετ’ αὐτοῦ καὶ ἤρξατο ἐκθαμβεῖσθαι καὶ ἀδημονεῖν
33:そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
34καὶ λέγει αὐτοῖς· περίλυπός ἐστιν ἡ ψυχή μου ἕως θανάτου· μείνατε ὧδε καὶ γρηγορεῖτε.
34:彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。
35καὶ προελθὼν μικρὸν ἔπιπτεν ἐπὶ τῆς γῆς καὶ προσηύχετο ἵνα εἰ δυνατόν ἐστιν παρέλθῃ ἀπ’ αὐτοῦ ἡ ὥρα,
35:少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36καὶ ἔλεγεν· αββα ὁ πατήρ, πάντα δυνατά σοι· παρένεγκε τὸ ποτήριον τοῦτο ἀπ’ ἐμοῦ·
ἀλλ’ οὐ τί ἐγὼ θέλω ἀλλὰ τί σύ.
36:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
37καὶ ἔρχεται καὶ εὑρίσκει αὐτοὺς καθεύδοντας, καὶ λέγει τῷ Πέτρῳ· Σίμων, καθεύδεις; οὐκ ἴσχυσας μίαν ὥραν γρηγορῆσαι;
37:それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
38γρηγορεῖτε καὶ προσεύχεσθε, ἵνα μὴ ἔλθητε εἰς πειρασμόν· τὸ μὲν πνεῦμα πρόθυμον ἡ δὲ σὰρξ ἀσθενής.
38:誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
39Καὶ πάλιν ἀπελθὼν προσηύξατο τὸν αὐτὸν λόγον εἰπών.
39:更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
40καὶ πάλιν ἐλθὼν εὗρεν αὐτοὺς καθεύδοντας, ἦσαν γὰρ αὐτῶν οἱ ὀφθαλμοὶ καταβαρυνόμενοι, καὶ οὐκ ᾔδεισαν τί ἀποκριθῶσιν αὐτῷ..
40:再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
41Καὶ ἔρχεται τὸ τρίτον καὶ λέγει αὐτοῖς· καθεύδετε τὸ λοιπὸν καὶ ἀναπαύεσθε· ἀπέχει· ἦλθεν ἡ ὥρα, ἰδοὺ παραδίδοται ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου εἰς τὰς χεῖρας τῶν ἁμαρτωλῶν.
41:イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
42ἐγείρεσθε ἄγωμεν· ἰδοὺ ὁ παραδιδούς με ἤγγικεν.
42:立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
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