すべての人に仕える者(マルコ9:33-37) 20250323
更新日:1 日前
本稿は、日本教団教団杵築教会における2025年3月23日の受難節第三主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
コヘレトの言葉4章4-12節(旧1038頁)
マルコによる福音書9章33-37節(新79頁)
1.誰がいちばん偉いか
本日与えられましたマルコによる福音書9章33節には、「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」と書かれています。
主イエスに「何を議論していたのか」と尋ねられると、弟子たちは、自分たちの議論の内容を主イエスにお話しすることができずに黙っています。後ろめたいと思っていたからでしょう。「だれがいちばん偉いか」などと競い合うことは、明らかに主イエスの教えとは反することだと、弟子たちも分かっていました。だから答えることができずに黙っていたのです。
弟子たちが、なぜ「だれがいちばん偉いか」と議論していたのかは聖書に書かれていません。すぐ前の8章31節に「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。」と主イエスが未完了形で継続している出来事として語っていますので、常日頃から受難予告を弟子たちにされていたのでしょう。そのために、主イエスが亡くなられた後のリーダーについて弟子たちの間で議論していたと想像することもできると思います。
しかし、この時の弟子達が抱いていた関心がどこにあったかについては隠すことはできないと思います。私たちが信仰生活や奉仕の業の中で、自らを誇って優れた者と考えることは、この世の比較競走社会で行われていることと較べれば少ないと思います。しかしへりくだって周囲に気を配りながら教会の中で奉仕をしていく中にあっても、知らず知らずに「だれがいちばん偉いか」といったことを考えてしまうことはよくあるのではないでしょうか。
また、私たちの教会での歩みの中で、他の人と比較して自分に劣等感を持つことがあると思います。自分は周囲にいるあの人や、この人と比べてしっかりとした信仰生活を送れていないとか、聖書を日々読んでいる人に比べて聖書の理解が十分ではないなどと感じるのです。そして、私は何と忠実とは言えない信仰者なのだろうかと、謙遜さを越えて自分を卑下してしまうことがよくあるのです。
聖書の中で、このように弟子たちが偉さを比較している姿に出会います。主イエスに仕える弟子たちでさえ、人間の栄誉や優劣への関心が湧いてしまうことに気付かされるのです。
人は誰もが、自分は他の人より上だとか下だとか、人から軽く扱ってもらいたくないとか。人の輪の中心にいたいとか、自分は他の人よりも余計に傷ついたとか、重んじられなかったとか、そのような気持ちになるのです。
いつの時代でも、どの地域や国に行っても、表立って議論されることはなくても、人間社会の中にあって、いつの間にか人と自分を比較していることに気付くのです。そして、自ら自分に自由を奪うようなな軛(くびき)を負わせてしまうことがよくあるのです。
2.仕える者
35節に、「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」」と書かれています。
ここで主イエスが言われたかったことは、「すべての人に仕える者になりなさい」ということです。
「仕える」という、もともとの意味は、食事の世話をする、給仕をするということです。そこから、食事だけでなく生活全体の世話をするという意味に拡がっていきました。ここで「仕える」というのは、人のために気配りすること、人のお世話をすることを意味します。
主がすべての人に仕える人になりなさいと言って、私たちを招いておられることが分かると、人と自分を比較をして競い合う愚かさに気が付きます。世界が違って見えてきます。共に仕え合い、共に歩み、共に生きる世界が見えてきます。そして、自分たちの心から、自分が偉くならなければならない、重んじられなければならない、軽く見られたくない、といった思いから解放されるのです。人と一緒に歩む道が大切に見えてきて、主イエスの愛が分かってくるのです。
主が十字架に架かられた本当の意味、愛の姿は、人の下に立ったところからでなければ見えてきません。この世では、リーダーは人々の上に立って人を支配するものです。ところが神の独り子主イエスが言われる、すべての人に仕える人とは、それとは真反対のことなのです。人々のために主イエスが働いてくださるという、逆ピラミッド型の世界となることです。
このように、主イエスの十字架の道については、この世の基準では評価できないものです。損得の基準ではありません。単なるヒューマニズムや、人類愛の道でもありません。自分より劣ると思われる者、価値がないと思われる者を否定したり排斥したりしないで、むしろその人に仕える人となって、その人をありのまま受け入れることなのです。それが主イエスの姿なのです。
3.コヘレトの言葉
本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、コヘレトの言葉の4章(旧1038頁)です。
コヘレトとは、ヘブライ語で、集会で語る者、伝道者、説教者と訳されます。
コヘレトの言葉では、筆者であるコヘレトが王となって、あらゆる権力を手に入れて、あらゆる快楽に浸り、あらゆる知識を得た、と語っています。人生においてあれこれと自由にやってみた。その結果がどうであったかというと、すべてはむなしかったと言うのです。
4章4節には、「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。」と書かれています。「仲間」に対して「競争心」を燃やしているというのですから、この世の世界そのものです。仲間として一緒に歩むことはできなくなるでしょう。それは、むなしいことだ、風を追うようなことだ、というのです。
また、8節には、「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。」と書かれています。
結局自分は死ぬわけで、飽くことなく貯めたものを死後の世界に持ってはいけません。これまでの労苦は誰のためのものだったのか、「仕えることをしない」生き方では、最後は自分一人になるのでむなしい、とコヘレトは言うのです。
9-12節をご覧ください。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」と書かれています。
ほっとする言葉です。私は結婚式の祝辞を求められたときに、このコヘレトの言葉を読ませていただくことが多くありました。新しく新郎新婦のお二人でお互いがお互いに仕える人となって、これからの人生において三つよりの糸を編んでください。真ん中の芯となる糸は、神様です。神様を中心として三つよりの長い髪を編むように優しい気持ちで歩んでください、とお話ししてきました。
この三つよりの糸は教会で編み続けることができます。良質な絨毯ほど、裏側の糸が複雑に絡みあっています。絨毯を表から眺めないとその良さは分からないのです。それが私たち人間の姿なのではないでしょうか。
4.子供を受け入れる
主イエスは、今日のマルコによる福音書9章36、37節で、「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」」と、言われています。
ここで抱き上げられた子供は、私たちが考えるような、かわいらしくて素直な子供と考えるわけにはいきません。子供は素直な反面、時には、非常に我が儘です。自分の願望を通すために駄々をこね、大人たちの思い通りにいかずに、激しく泣き叫びます。公共の場所で、泣き叫んでいる子供を見て、大人たちが思わず顔をしかめている光景もよく見受けられます。
しかし主イエスは、成熟していない子供を受け入れなさい、そこに降って、共に歩みなさい、と仰っているのです。
今日の御言葉を皆さんと一緒に聞きながら、私はまだまだ、自分にはガキ大将のような気持ちが目立ち、いかにも成熟していないなあ、と気付かされます。頭を垂れて悔い改めています。
杵築教会に伝道師として初めて赴任して、教師はいったいどこに立つべきなのかと考えることがよくあります。教会員の祈りの中で、「先生を先頭にして、教会が…」という祈りがなされます。教師は教会員の多くの祈りに支えられているのだと、引き締まる思いがします。
聖書に記されているとおり、教師は羊飼いとして御言葉を語り、羊を養い、羊の群れを導くことが求められます。そして礼拝で御言葉に共に耳を傾け、教会員と共に歩みむことが大切だと示されます。羊飼いである教師には、いなくなった一匹の羊を探し出すことが求められます。そのためには、教会全体が歩んでいくときに、教師は一番歩みのゆっくりとした人に合わせる必要があります。教会の歩みは急ぐ必要がないし、むしろ急いではならないのです。主イエスを真ん中にして人と共に歩むこと、それが教師の責任であり教師の心得なのです。
今日の御言葉を皆さんと一緒に聞きながら、まだまだ自分にはガキ大将のような気負いが目立ち、本当に成熟していないなあ、と気付かされ、頭を垂れて悔い改めている自分がいます。
教会員の祈りの中で、「先生を先頭にして、教会が…」という祈りがなされますが、教師は教会員の多くの祈りに支えられているのだと身の引き締まる思いがします。
聖書に記されているとおり、教師は羊飼いとして御言葉を語り、羊を養い、羊の群れを導くことが求められます。そして、羊飼いである教師には、いなくなった一匹の羊を探し出すことが求めらています。
そのためには、教会全体が歩んでいくときに、教師は一番歩みのゆっくりとした人に合わせる必要があります。教会の歩みは急ぐ必要がないし、むしろ急いではならないのです。
2025年度の教会形成に向けて、主の導きを祈り求めている日々が続いていますが、3月9日の受難節第1主日礼拝の中で、故堀澄子さんの納骨式をさせていただきました。主のご計画の中にある杵築教会に示された歩みであり、偶然ではありません。
故堀澄子さんが生涯を白百合幼稚園に捧げられたことを偲び、小さな子供を受け入れ、すべての者に仕える主イエスの十字架と復活に示された愛を深く知らされます。主イエスが、へりくだって私たちのところに来てくださいました。そのことを私たちは、感謝して受け入れ、信仰の諸先輩が示してくださった、子供の一人を受け入れる主イエスの歩みに倣っていくことの大切さを知らされています。
私たちは主の憐みと愛を受けるに値せぬ者ですが、すべての人に仕える人、主イエスを受け入れることによって、主の恵みの愛をいただくことができるのです。
皆さんと共に、父なる神様の御言葉に従って、たゆむことなく光の中を歩むものとさせていただきましょう。

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