この人だけを(マルコ7:31-37) 20250126
更新日:1 日前
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年1月26日降誕節第5主日礼拝の説教要旨
です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
創世記1章24~31節(旧2頁)
マルコによる福音書 7章 31節~37節(新75頁)
1.主イエスの足跡
本日、私たちに与えられた聖書箇所マルコによる福音書7章31節には、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」と様々な地名が出てきます。
ティルス、シドン、デカポリスは、いずれもユダヤ人の町々ではなく異邦人の地名です。主イエスが、異邦人の町々を回ってから、ガリラヤ湖にやって来られたと書かれているのです。
ガリラヤ湖のカファルナウムを旅だって地中海岸の漁村ティルスから始まった、今回のイエスの異邦人の地への旅は、ガリラヤ湖の北から南東へとヘロデ・アンティパスの統治外となる広範な地域に及んでいます。
そのため、この旅は、少なくても8ヶ月以上の日程を要したはずだと聖書学者たちが言っているほどです。
主イエスの神の愛は、地理的・政治的・人種的境界線をも越えて働かれることを示されたのだと言ってしまえばそれまでですが、人間的な見方をすれば、主イエスがこのとき異邦人の地に出かけられたことには次のような背景があったと考えられます。
第一に、バプテスマのヨハネを処刑したヘロデ・アンティパスが、イエスの噂を聞いて「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」(マルコ6:16)といっている、という情報が入っていたことです。そのため主イエスは、ヘロデの力が及ばない地に逃れたということです。
また、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が一緒になって、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(マルコ3:6)と書かれていますから、主イエスは、自分たちの言い伝えにこだわり続けるファリサイ派の人々から少し離れて、静寂を求めて身を隠すように異邦人の地へ出かけられた、と考えることも出来ると思います。
そのように整理してみますと、マルコによる福音書7章24節で、「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられた」という興味深い記述についても説明がつくのです。
2.主イエスのうめき
いずれにしても、主イエスは異邦人の地を行き巡ってガリラヤ湖に戻ってこられました。そして今日のいやしの出来事が起こります。
32節です。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」と書かれています。
本人が言葉を出せなかったので、周りの人たちが連れて来て、主イエスにいやしを願ったということです。
そして33~34節には、「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」と書かれています。
聖書注解者のW.バークレーは、この聖書箇所について、「人々を処置されるイエスの様子を、このように美しく示している奇跡はない」と言っています。
そのことを確認して参りましょう。
先ずは、「この人だけを群衆の中から連れ出した」と書かれていることです。今日の説教題はここから選びました。
「この人だけを」とあるように、主イエスは私たちに接するときに、いつもとてもやさしい配慮を個人個人にしてくださっているということが分かります。主イエスは、私たち一人ひとりの実情をすべて知って、私たちを大切に扱ってくださる方だということなのです。
詩編145編14節に「主は倒れようとする人を一人ひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。」と書かれていることを、人々が主イエスによって目の当たりにすることになるのです。
耳の聞こえない人は、話しかけられても聞こえないので、自分に接してくる人がいると、緊張とおびえでどうしたらよいか分からなくなることを主イエスはよくご存じなのです。そして、その人に温かな思いやりを示されて、その人だけを連れ出したのです。
続いて、「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」と書かれています。この時代の人々は、唾にいやす力があると信じていたことが背景にあります。
コロナ禍を経験した私たちには、唾を付けた指で人の舌に触れることなどはかなり抵抗があることです。その時代の状況を斟酌すれば、助けは神から来ようとしていることが分かるように、主イエスは唾付けといった動作をされたのでしょう。
この後に、天を見上げたというのも同じです。
そして、「深く息をつきἐστέναξεν」という言葉が出てきます。
この言葉にも注目する必要がありそうです。同じ言葉が新約聖書で使われている箇所を調べてみますと、「うめくgroan」という訳をしています。
ローマ信徒への手紙8章26b節で、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と書かれています。
この人は口が利けない人でしたから、わたしたちの代わりに聖霊なる神が、深く息をつき、うめいて執り成してくださることを示唆しているのでしょう。
そして主イエスは、その人に向かって言葉を発します。「エッファタ」(34節)と言われました。マルコが「開け」という意味だと解説を加えています。
そして、「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」(35節)と書かれているのです。
3.すべて、すばらしい
36節には、次のように書かれています。
「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」と言うのです。
ところで、主イエスはなぜ口止めされたのでしょうか。
本日の聖書箇所で主イエスが口止めされた時点では、主イエスの十字架と復活がまだ起こっていません。ですから、本当の救いの意味が明らかにされていないので口止めされたと考えれば良いのかも知れません。
しかし、口止めされても、なおその人の開かれた口でそのことが伝えられて行くのです。
そして37節で、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と、人々が主を賛美したと書かれています。この人をいやしてくださったこの出来事だけがすばらしい、と言っているのではありません。主イエスのなさったことは、「すべて、すばらしい」というのです。
本日、与えられた旧約聖書の箇所は、創世記1章24-31節の、天地創造物語の6日目の物語です。
神は、第六の日に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創1:26)と仰いました。さらに創世記1章29、30節では、「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」と神が仰って、そのようになりました。そして、31節には、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と書かれています。
主イエスが来られたとき、ガリラヤで伝道を始められ、人々の体をいやし、人々の魂に救いをもたらされました。主イエスが創造の働きを再び新しくはじめられたのです。
神の最初の創造の時には、すべてが良かったのです。しかし、人の罪がそれをけがしてしまいました。そして主イエスは、人の罪が醜くしてしまった世界に、神の美しさを再び持ち帰られたのです。新約聖書の主イエスの創造の出来事と捉えることもできるのではないでしょうか?
マルコは、そのことを強調して、耳が聞こえず舌の回らない人をいやした出来事をこのように臨場感のある美しい繊細な書き方で記しているのではないかと思います。
ですからマルコの主張は、この出来事だけではなく、今もなお起こり続けているすべての出来事が、すばらしいということなのです。
讃美の声は、今も絶えることがありません。
私たちも耳が開かれ、口が開かれるのです。
そして讃美の歌声があがっていくのです。

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