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あなたの罪は赦される(マルコ2:1~12) 20240616

  • 執筆者の写真: 金森一雄
    金森一雄
  • 2024年6月16日
  • 読了時間: 10分

更新日:2024年9月27日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年6月16日聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

です。 杵築教会伝道師 金森一雄 

 

(聖書) 列王記上17章17~24節(旧約562頁)          

     マルコによる福音書2章1~12節(新約63頁)

(説教)

1.中風の人を運ぶ四人の男

主イエスは巡回宣教を終えて再びカファルナウムに来られました。第1章で、主イエスが会堂で教え始められたのも汚れた霊をお叱りになった話もカファルナウムで起きた出来事です。弟子となったシモン・ペトロの家もまた、このカファルナウムにありました。その後、主イエスはガリラヤ湖周辺へと活動の範囲を広げて巡回して宣教していかれます。そして、カファルナウムに戻って来られたのです。

 1節で、主イエスが家におられたというのですから、シモンのしゅうとめの家におられたでしょう。2節に、「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると」とあります。おそらく多くの人々は、癒しの奇跡を求めて、あるいは奇跡を見たいと願って来たのだと思われます。その人々に対して、主イエスが先ずなさったことは、何でしたでしょうか?それは、御言葉を語ること、教えることだったのです。ということは、このときすでにこの家で教会形成が始まっていることがうかがい知るのです。

 そこへ四人の男が中風の人を運んで来ます。中風の人が寝ている床の四隅を持って、運んできたのでしょう。この四人は、戸口の辺りまで集まっている人でいっぱいになっていたので、とんでもない行動をとります。「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」(4節)というのです。 

当時の家は、壁は石を積み上げ、屋根は平らで木の枝と泥で作られていました。秋の雨期の前に定期的に、補修をしていた様子がうかがえます。補修用の階段かはしごのようなものが外側に掛けられて、簡単に屋上に昇ることができる設計になっていました。暑い夏の夕涼みにも屋上は利用されていたようです。ですから屋根に穴を明けることは、比較的簡単でした。彼らは、イエスのおられるのはこの辺りだろうと、見当をつけて、屋根に穴を空けたのです。主イエスの話を聞いていると、突然天井からパラパラと泥が落ちてきました。そのうちに穴が空いて、空が見えるようになりました。人の手でその穴がどんどん広げられていき、天井の破片がバラバラと落ちてきます。そして、中風の人を寝かせた床が、四隅を吊るされて降ろされてきたのです。

 まことに大胆な行動だと思います。他人の家の屋根を勝手に壊し、中風の人の床を屋根から吊り下げて主イエスのおられた家の中へ降ろすことは決して許されることではありません。大勢の人が集まり、戸口のあたりまですきまがないほどになっていたというのですから、彼らは主イエスの話が終って人々が帰るのを戸口の外で待って、それから主イエスに癒しをお願いするというのが普通でしょう。何が、この四人の男にこんな非常識な行動を起こすように仕向けたのだろうか、と考えをめぐらしてしまいます。

 ところが5節に、主イエスが「その人たちの信仰を見て」とあります。主イエスが見たという、その人たちの信仰とは、どのような信仰だというのでしょうか。

彼らの四人の男は、何が何でも主イエスのところへ中風の人を連れていくという強い思いでいっぱいであることが分かります。主イエスなら、この病人を何とかしてくださる、と固く信じていたのです。ですから、どんなことにも優先して主イエスを目指したのです。

さらに、どうしてこの人たちは行儀正しく順番待ちをしなかったのでしょうか。他にも大勢の人が集まって主イエスの癒しを求めて、順番を待っていた人たちもいたはずです。

この四人の男たちは、この世のルールや常識にはとらわれていません。

悪く言えば、ルールや常識破り。非常識です。ところが、この人たちの行動は、私たちの信仰について考える際に、案外大事なことを指し示していると考えることもできます。

 思い起こしてください。先に主イエスは、1章15節で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われていました。喩えは悪いですが、その主イエスの言葉は、津波警報と似ていると言えるかもしれません。それを聞いたならば、当時のユダヤ人にとって緊急事態宣言が出されてすぐに行動を起こす必要があると考えられる言葉です。

「そのうちに」などとのんびり構えている場合ではないのです。この四人の男たちの大胆な、非常識な、そしてせっかちな行動は、「時は満ち、神の国は近づいた。」という主イエスへの応答だったのです。救いを求めて、主イエスならばどうにかしてくださる、何が何でも主イエスのところへ行く、そのように考えたのです。 

それを見た主イエスは、この人たちのうちに、信仰を見出してくださいました。信仰とは、こういうものだと仰ってくださるのです。そして、5節で、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われます。この言葉を聞いた律法学者達は物議を起こします。確かに意表を突く言葉です。中風という体が麻痺してしまって、自分では動けない病を抱えている人に対して、主イエスは、「あなたの病は癒される」というのではなく、「あなたの罪は赦される」と言われたのです。主イエスが彼らの行動を、喜ばれて、高く評価された結果だということなのです。

 

2.主イエスはまことの神なのか

マルコは、律法学者たちの姿を6節で、「律法学者が数人座っていて」と記しています。いきなり律法学者を物語の中に登場させています。しかも2節に、「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」と記されているのに、律法学者たちは座っていたのです。彼らに優先席が用意されていたとは思われませんので、彼らは用意周到にその場に来てあらかじめ席に着いて座り込んでいたのです。律法学者たちの中に、密偵のような存在があったのです。そして、「心の中であれこれと考えた。」(6節)と表現して、彼らが考え過ぎの状況にあることを表現する言葉を用いています。

 マルコは7節に、その律法学者たちが心の中で考えていることが何であるか記しています。「この人は、なぜこういうこと(すなわち、5節で「あなたの罪は赦される」と言うこと)を口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」というのです。律法学者たちにすれば、ただの人間である(神だと認めていない)イエスが、自分を神と等しい者とするようなことを語っているというので、神への冒涜行為だというのです。それは、正しい指摘です。

 

しかし、ここに問われていることの問題の根本は、主イエスがまことの神なのか、それともただの人(預言者の一人)なのか、ということにあります。

彼らは、主イエスがただの人間だと考えているのですから、主イエスが中風の人に、「あなたの罪は赦される」と言ったのは、神を冒涜する言動だというのです。主イエスが、病を癒し、罪を赦す権威を持っているのであるならば、主イエスは神であることになるからです。

主イエスは、彼らがそのように、あれこれと考えていることをご自分の霊の力で知り、8~10節で、一つの問いを彼らに投げかけられました。

「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(8節)と、いうのです。

そして、主イエスは一つの問いを出されます。罪を赦すことと病を癒すことでは、どちらが易しいでしょうか(9節)。というのです。

どちらも、「言うは易く行うは難し」です。口先だけで言うならば簡単です。しかし実際に行うことになるとどうでしょうか。主イエスは、ここではその答えは仰いません。

 しかし10節で、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と律法学者たちに言われて、11節で、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と、中風の人に言われ、中風の人の癒しをしてくださっています。

この主イエスの言葉から、病の癒しと罪の赦しが結びついていることが分かります。

つまり、主イエスが病を癒す力があるならば、主イエスが罪を赦す権威をお持ちであるということにつながってくるのです。 

これは私たちの中にもある思いでもあるのです。私たちも、神様が独り子主イエスによって、その十字架の死によって罪を赦して下さる、という福音を告げられる時に、それを抽象的に捉え、言葉のみのこととして受け止めて、現実の様々な問題と触れ合わないので、そんなことを口で言うだけなら簡単だ、私が求めているのはそんなことではないと思うのです。

 罪の赦しというのは、難しいものです。何が難しいのかというと、本当に赦されたのか、あるいは赦されていないのかが、曖昧になることも多いからです。それが目には見えないからです。しかし病の癒しという目に見えるものがあって、罪の赦しが本当であることが証明されるのです。主イエスが、証拠を示してくださっていることになります。その証拠を前にして、後は主イエスを信じるか信じないかとなるのです。

 

 3.預言者エリヤと主イエス

先ほど聖書朗読していただいた列王記上17章の冒頭の小見出しには、「預言者エリヤ、干ばつを預言する」と記されています。これから数年間、雨が降らず干ばつが続いて、人々が苦しむという預言をアハブ王に告げます。

そして、8節では、主の言葉がエリヤに臨み、やもめの家に行きました。そして、そのやもめの息子が死んでしまいましたが、22節でエリヤを通してなされた神の奇跡によってその息子は生き返ります。そして24節には、その息子の母親であるやもめがエリヤに言った言葉が記されています。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」というものです。

そのやもめは、エリヤが死んだ息子を生き返らせてくださったという証拠を前にして、エリヤがまことに神の人であり、主の言葉は真実だと信じたというのです。


マルコによる福音書10章45節には、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と記されています。主イエスが十字架に架かられる直前に言われた言葉です。「人の子」とは主イエスご自身を指します。主イエスの命が身代金として、代価として、償いとして支払われる。それが十字架の出来事です。 

誰もが心当たりのあることですが、相手からふさわしい代価を支払ってもらえませんし、自分もまたそれなりの代価など支払えない、と思うものです。自分が犯した罪、犯された罪に対する代価が重すぎるのです。聖書でいう罪の赦しも、簡単な代価ではありません。

代価はものすごく高くて重いのです。その代価が、神であるイエス・キリストの命です。

その代価が支払われたのが。十字架の出来事です。

それによって、私たちの罪が本当に赦されたということが分かるのです。 

そして、12節には、「このようなことは、今まで見たことがない」と人々が皆驚いて言っています。そして、神を賛美したと記されています。この出来事によって主イエスの救いにあずかったのは、中風を癒された人だけではなかったのです。中風の人を連れて来たあの四人の男たちも、またこの家に集まっていた多くの人々も、中風の人と同じように、「あなたの罪は赦される」という福音を、自分に対する御言葉として聞くことができたのです。

「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスのみ言葉を真剣に受け止め、その時を捕えようとして私たちが動き出す時、神様の救いの御業が、私たちの周囲の人々を巻き込んでこのように前進していきます。そしてそこには、悔い改めて福音を信じる者たちの群れが興されていくのです。

 何が何でも主イエスのところへと向かう、その愛と信仰を、主イエスも喜ばれました。私たちも主イエスのところに人を運んだり、あるいは自分が運ばれたりします。

それが教会の営みです。

私たちは、どこへ向かって運べばよいのでしょうか。

私たちは、その目的地を知っています。

救い主である主イエスのところへ、運べばよいのです。愛をもって運び、運ばれるのです。何が何でもそこを目指して運んでいく。主イエスなら必ずよいようにしてくださる。それが私たちの信仰なのです。



 
 
 

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